前夜

 穂坂さんの話を聞いた時、俺はどう返すべきだったのだろう。

 彼女が言うには、この組織は自分と重なる人に未来さきを見せる仕事だと捉えているらしいが、そうだとするなら俺だって、少しは気の利いたことの一つでも言ってあげるべきではなかったのだろうか。

 穂坂さんの話を聞いた日の夕食後、夜子さんに誘われて出た屋上で、俺はそんなことを聞いてみた。


 すると、夜子さんの答えは「ノー」だった。

 理由を問えば、またも微笑んで答えた。

 理解してからでも遅くはない、と。

 今はまだ、俺はそこに至っていないらしい。

 深く踏み入っていない奴の同情程気に入らないものはないと言うが、それは俺に対する叱咤ではないらしい。これから知って、彼女のことを理解して、それから生まれた自然な言葉をかけてあげられるようになれば。

 今はまだ、誰もそこに至ってはいないですけど、と夜子さんは笑った。


 解されることのない思い出だろうが、誰かがこの先、ずっと未来でも良いから、一人でも寄り添ってくれる人がいればいいと思います、と柵の外に目をやった。

 そして、


『私はそれが、君みたいな人だったら良いと思っています』


 と。

 別に深く気に掛ける必要はないと釘を刺されたけれど、そんなことを言われてしまっては、穂坂茜という女性が取る行動の一つ、表情の一つ、言葉の一つ一つが気になって仕方がない。

 強がっているのだろうか、誤魔化しているのだろうか、敢えてそうしているのだろうかと疑ってしまう。

 穂坂茜が本当は強い人間だと分かっても、まだ年の若い一人の女の子なのだと思えてしまう。


 そんな気持ちはすぐに伝わってしまうようで、たまに目が合うと、肩を竦めて笑ってみせてくる。

 気にしないでと、そんなつもりはないよと言われているようで、俺はどうにも言葉がかけ辛い。




 そんな感覚を味わいながら迎えた、初仕事決行前夜。


「飲め飲め! おおい新人、二十歳過ぎてんだろ、もっと飲めよ!」


「ピザもまだまだありますよー。はい、追加焼き上がり!」


 メンバー一同が会する食卓。

 そこで、ささやかながらと謳いつつ、豪華な晩餐会が開かれていた。


 この仕事には犠牲が生じる時がある。

 それは小さな傷である場合もあるし、大きな火傷である場合もある。過去に居たメンバーの一人は、説得に応じず激昂した自殺志願者に殺された。

 そんなことがあってから、仕事前夜には必ず、メンバー全員でこういった食事会を開くようになったのだそうだ。


 酒にビールにワインといった飲み物、ピザに寿司に汁物、サラダといった何でもありの食事風景。

 大いに飲み、大いに食われていくそれらは、無くなる寸前に絶え間なく穂坂さんによって補填されていく。

 それらの品々が掃除機のようにどんどん吸い込まれていく中、彼女はちゃんと食べられているのだろうかとふと気になって、キッチンへ向かった。


 好き勝手に食べ進める四人を置いて廊下を進んで訪れた少し離れた別室のキッチンには、もちろんこの人ひとりしかいない。

 コトコト、ザクザクと食材を切る音が虚しく響く。

 しかし、作業を進める穂坂さんの表情が暗くない、むしろ明るめに見えたことで立ち入るのを躊躇っていると、振り返りもせずに俺の名前を言い当てた。


 恐る恐る一歩踏み込み、頭を掻きながら言った。


「覗き見するつもりはなかったんですが…」


「ううん、別にいいよ。他の人たちは勿論、夜子さんも、敢えて気を回さないだけだから」


 トントン。


「穂坂さん、ご自分は食べられてます?」


「んー? ちゃんと食べてるよ」


 ガタガタ、ジャー。


「そうですか……あ、運ぶの、手伝います」


「ありがと。じゃあ、そこのお味噌汁、人数分よそって持って行ってくれる?」


「分かりました。食器は――これでいいんですか?」


「そう、それ。じゃあ、よろしく」


 戸棚に綺麗に並べて仕舞われているそれらを六つ取って、俺は鍋の蓋を開けた。

 立ち上る湯気の奥から、どこか懐かしくも良い香りが漂う。


「この一週間、簡単なものしか作ってなかったからねー。腕が訛ってなきゃいいんだけど」


「凄く良い香りです。今更ですけど、穂坂さんって料理上手なんですね」


「本当に今更ね。昨日までのはお口に合わなかったかしら?」


「え? い、いえ、そんなことは…!」


「ふふ。冗談よ、冗談。トレイはそこの使ってね」


 一通り弄って笑って、穂坂さんは俺の傍らにあるトレイを指さした。

 六つ入れ終わったそれらを乗せて持ち上げ、他のメンバーが待つ部屋へと戻ろうとする。

 そこで、「ねえ」と呼び止められた。

 不意の呼びかけに味噌汁をひっくり返しそうになりながら堪えて、安堵の溜息をついて振り返る。


「一昨日はありがと。ちょっと楽になった気がするよ」


「いえ……俺は別に、本当に何もしてませんよ?」


「ううん。今だって、手伝いっていうのは理由の一つなんでしょ? 変に心配させちゃったかなって、気付いてる」


「それは――まあ、そうですけど」


「やっぱり。君は優しいよ。無能力なのに雇われた理由、ちょっと分かっちゃうな。読心しなくても手に取るように、君の思いは伝わってくる」


「おだてても、何を出せる金もありませんよ」


「独り言よ。さ、こっちも終わったから一緒に行こっか」


 フライパンの上には、艶やかな光沢を纏ったジャーマンポテト。

 手際よくそれを大皿に移すと、フライパンを流しに置いて、たたっと俺の横に並んできた。

 ふわりと揺れた長い髪から漂うシャンプーの香りに戸惑いながらも、二人して食卓を目指す。


 初仕事、決行は明日。

 聊かの不安も覚えるが、ひとまずは明るく、食事を楽しもう。

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