一章
保坂茜という人物
『自殺志願者保護対策所』縮めて自保。
俺を『保護』という名目の元で雇った湯谷夜子は、自身が作り上げた組織をそう名付けて呼んでいる。
現メンバーは全部で六人。
組織長湯谷夜子、その右腕・
加えて皆、それぞれ異なる特殊な能力を持っているという。
夜子は『千里眼』、波場は『侵入』、穂坂は『読心』、岩山は『剛腕』、三浦は『具現化』といった具合に分けられているのだが――詳細は忘れた。追々活躍することもあろう。
組織は、夜子の『千里眼』によって見つけられた、未来で自殺をする『訳あり者』を止めることが目的らしい。
しかし、だとする俺は――
―――
と、そこまで日記に綴って眠り、迎えた七日目の朝。
これまで、特に変わったことは起きていない。
日がな一日、夜子さんは文庫本の頁を捲って過ごしている。必要なら買い出し、穂坂さんの作る料理の手伝い、その他諸々といった感じだ。
他の皆は、事務所内に居たり居なかったり。
優しい人たち故、居て嫌にはならないのが幸いだ。
俺はというと、たまに頼まれて穂坂さんの手伝いをするくらい。
そうでない時は部屋に籠ってパソコンを弄るか、昼寝を決め込むか。
いずれにしても『仕事をして生きている』と声を大にして言えるものでは決してなかった。
溜息交じりにパソコンの電源を落とした昼下がり、ノックをして部屋に入って来たのは、珍しくも夜子さんだった。
「どうかしました?」
「事務所に来てください。初仕事の詳細を説明します」
「仕事――自殺者が?」
「はい。まだ日はありますので安心してください」
「分かりました。先に降りててください」
夜子さんは頷き、優しく扉を閉めて事務所へ向かった。
パソコンが落ちていることを確認して携帯を持つ。そして部屋の電気を消して、急いであとを追いかけた。
事務所には既に俺を除く全員がそれぞれの椅子に腰かけていた。しかし、慌てて席につこうとして、俺は配線に足を取られてこけてしまう。
鼻を押さえて起き上がった俺を真っ先に笑ったのは、穂坂さんだった。
「ドジだなぁ芳樹は。何もないとこでこける、普通?」
「コードあるでしょうコードが。流石に何もないところではこけません」
「配線くらい、目隠ししても飛び越えられるわよ。ふふふ」
悪戯に笑う表情は見た目と合っていない。
「はいはいその辺にして、芳樹くん、時間はあるから、焦らないでいいのよ」
「優しいというか、甘いなぁ夜子さんは」
「お前はナチュラルに厳しすぎだ」
突っ込んだのは紘輝さんだった。
ナイスです。
生きているのに不幸だ、などと思いながら立ち上がり、ふらつきながら席に着く。
そうして夜子さんは全員の顔に目を配り、よしと頷いて口を開いた。
「芳樹くんの為に改めて。この組織自保は、皆と同じ境遇の者を救わんとする目的の元で動いています。分かっていますね」
普段と違い、毅然とした態度で発せられた言葉に、皆一様に力強く頷く。
それに倣って、ワンテンポ遅れて首を縦に振る俺を見て、夜子さんは優しく微笑んだ。
「『未来視』がありました。日は三日後の七月七日、七夕ですね。午後七時半、二丁目街はずれのとある廃屋なのですが――」
そこまで言って急に渋る夜子さんに、波場さんが眼鏡を直しながら言った。
「得物ですか」
「はい。家庭用のごく一般的な包丁での自殺です。首を一突きという終わりです」
なるほど、刃物か。
俺もそうしていれば、あるいはこいつらに留められることなく――いや、生きると決めた今、詮無き事か。
「厄介だな。俺は役に立たんだろう」
「読心も、返って興奮させちゃうだけかなー」
紘輝さん、穂坂さんが、自身の立つ瀬はないと肩を竦める。
しかし、その顔には一切の曇りもない。
光を失っていない二人の表情に訝しむ俺の背中を叩いたのは、隣に座る三浦さんだった。
「『何で』って顔してるな、新人。教えといてやるが、誰の能力よりも頼りになるのは、お嬢の話術だ。お前も体感しただろう?」
七日前の初日のことを思い出して寒気がした。
そう。湯谷夜子は口が上手い。
あの短い時間の中で二度、俺は夜子さんに泡を吹かされている。
「怒らせちゃうんじゃないんですか?」
「怒らせる? お嬢が?」
「まあ、たまに怖いよね、夜子さん」
「もう、皆さん好き勝手言って」
両手を振って否定する夜子さんは、どこかまんざらでもなさそうだった。
「たまに恐ろしくもあるが、お嬢は誰より人の心が分かる人だ。あの人の前では、自殺なんて生ぬるい」
「まあ、そうね。誰の力も役に立たないなら、最終兵器にして絶対の支配者、夜子さんに任せましょう」
兵器に支配者か。
某国の最高権力者を想起させて怖い並びだ。
会議のようでそうでない話し合いは最終、夜子さんを軸に、最悪の事態になりそうなら三浦さんが援護をするという内容で纏まった。
俺も必要ないだろうがな、と三浦さんが括ったのを聞いて、益々寒気が止まらない。
そして俺はというと。
「とりあえずは見学ですね。方法はメンバーによって異なりますが、まずは『こういう仕事なんだ』と理解してもらえればいいです」
「皆さん――人の命がかかっているというのに、やけにあっけらかんとしていませんか?」
俺含め、皆が元自殺志願者だったのだ。異様な構成な上、異様な空気この上ない。
それぞれ、自分が一番その心を分かっているというのに、えらく他人事なことだ。
弱点をついたと思われた俺の言葉は、しかし穂坂さんの言葉によって覆された。
「軽んじてなんかいないよ。とっても重い」
「だったら…!」
「芳樹の言いたことも分かるよ。緊張感を持てってことだよね」
そこまで分かっているなら、どうして。
言いかけた言葉を呑み込んで、穂坂さんの語る次の言葉を待つ。
「悲しんで憐れんで、そうやって接するのは偽善だよ。一見その人のことを酷く理解しているように見えるけれど、その実は逆、真逆なの。大事なのはその時の心を救うんじゃない。同じ気持ちを味わった者だからこそ、『その先、こんな前向きにもなれるんだよ』って示すことが、何より大切なこと。いい?」
言葉が出なかった。
微笑を浮かべながら真面目に語る穂坂さん。その周囲のメンバー全員が、同じように微笑み、強い覚悟に満ちたようにも見える瞳で俺を見ていたから。
反論の余地などどこにもない。この人たちは、遊びでやっているんじゃないんだ。
己の未熟さに唇を噛む俺に、穂坂さんは「夜子さんの受け売りなんだけどね」と苦笑する。
そして、ここからは持論だと言いながら歩み寄り、俺の身体を抱き寄せた。
「君だってそうだよ。みんな、元々が明るいっていうのも勿論理由の一つなんだけどね。自分から言うのもあれなんだけど……今言ったことを、メンバーたる君にも実践してるだけ。程度は分からないけれど、君だって辛い思いをしてきたからあんな決断をしたんだ。だったら、未来を示すのが先輩の役目なんだよ」
「穂坂さん……」
ここに居ることが苦じゃない理由が、ようやくと何となく分かった。
皆、ただ優しいのではなく、わざわざ気を遣ってくれていたんだ。
俺があんなことを考えないで済むように、努めて明るく振舞っていたんだ。
まったく、とんだ勘違い野郎だ。
全員、何という包容力か。
ただ歳を重ねて来た俺とは、人生経験がまるで違う。
「おい茜。お前の貧相な胸じゃあ、新人も安心できねーだろ」
唐突にヤジを飛ばしたのは紘輝さんだった。
そうは言うが、この弾力――いやあ、かなりのものだと思うんだが。
「なっ……! しっつれいね、この筋肉ゴリラ! あんたの胸囲と同じくらあるっての!」
「九十もあるかよこのぺったんこ」
九十もあるのか!
これは新事実。着やせするタイプとメモ。
「――切れた。久しぶりに喧嘩しましょうか」
「道場にするか。こっちもそろそろ発散したいと思ってたところだ。丁度いい、護身でも空手でも、好きなの選んでいいぜ」
喧嘩に武道とは。ちとやりすぎではなかろうか。
紘輝さんも大人なんだから、必要ない言葉の選別くらい出来ようものだろうに。
二人とも、向かい合って完全な臨戦態勢。
道場とやらに着く前に、この事務所で今にもおっぱじめてしまいそうだ。
「あの、お二人ともその辺に――」
して落ち着け、と言いかけたのだが、右側から尋常ならざる寒気を感じて黙った。
そちらを見ると、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべつつも、沸々と怒りを滾らせる夜子さんの姿があった。
「紘輝さん?」
「はいぃ…!」
「茜さん?」
「ひゃいっ…!」
こわ、こっわ!
大の大人二人がみっともない声を上げて、冷や汗をかいて固まってしまっている。
穂坂さんなんかもう、声裏返ってるし。
笑顔絶やさぬまま、夜子さんはとどめの一言。
「逮捕術の稽古なら、いくらでもつけてあげますよ?」
瞬間で二人の喉が変な音を上げたのは、聞かなかったことにしておいた。
―――
事後。
夜子さんの静かなる雷を見舞われた二人は、それぞれ自室と屋上へと消えていった。
反省と称して、一人落ち着きたいらしい。
一時間後、俺はその穂坂さんの様子を見てこいという夜子さんからの指令の元、屋上を訪れていた。
階段を最上階まで上がり、外に繋ぐドアのノブに手を掛けた。
ゆっくりと開くと、存外に強い風が頬を打った。
「芳樹?」
声がしたのは足元。
穂坂さんは、すぐ傍らで座り込んでいた。
女性が屋上で、なんて、ドラマや小説なんかでは、缶コーヒー片手に柵付近でたそがれているものだとばかり思っていたから、意外で苦笑してしまった。
「自分の意思? それとも夜子さんの指示?」
「――後者です」
「正直でよろしい。まあ座りなよ」
「はぁ。っと……!」
不意に投げて寄越される缶コーヒー。
飲みかけでなくて残念ね、などと茶化して言える辺り、そう落ち込んでもいないらしい。
一先ずは安心といったところだ。
プルトップを捻ると、心地いい音とともに芳醇な香りが漂った。
元は自分で飲む腹づもりで買っていたのであろうその香りが鼻に届くと、穂坂さんはやっぱり一口と取り上げて、一気に半分程飲んで返してきた。
結果的に、飲みかけということに。
まあ、それは置いておいて。
「仲、悪いんですか?」
「岩山のことね。別に、そんなんじゃないわよ。あいつが余計なこと言うから……」
「まあ、確かに」
再びの沈黙。
すぐに耐え切れなくなって、俺は少し躊躇いもしたが、コーヒーを一口飲んで気持ちを切り替えた。
見上げた空には大小異なる雲の数々。
一週間前にはあんなこと、と思いを馳せる。
「そういえば――」
ふと、気になって尋ねた。
「何?」
「ああいえ。ここの方たちって、みんなその――俺と同じように、元は自殺志願者だったんですよね?」
「ええ。それがどうかした?」
「穂坂さんになら聞いても大丈夫なものだろうか迷ったのですが……どうして、と尋ねるのは無粋ですか?」
俺の質問に、穂坂さんは黙った。
少し考えて、やがて「まあいっか」と俺に向き直る。
「どこから話したものか。私、昔昔に母親を亡くしててね。残った父親が、これまたどうしようもない奴でさ。酒に溺れて女引っかけて、とにかくやりたい放題って感じだった」
「父親が、ですか」
「かなりのものだったわよ。それが嫌で、高校二年くらいだったかな、退学して家を飛び出したの。まあ、その所為で私には碌な学歴もなくてね。バイト掛け持ちして、何とか凌いでた」
「またハードな。しんどくなかったんですか?」
「そりゃ当然、凄く疲れたわよ。でもね、そうでもしないと本当に死んでしまいそうだったの」
言われてみれば、それはそうだった。
父親に期待できない以上、自分で稼ぐしかない。しかし職にも就けないとなると、掛け持たなければ食ってはいけない。
ジレンマだ。
そこで、話す穂坂さんの声音が変わる。
「それでも苦しくなってきて、ある日を境に、私は稼ぎ方を変えた。身体を売ったの」
「身体……それって」
「想像通り、売春よ。それなりの見返りをくれる男とセックスして、それが終わったら次の男と――って感じに、数えたらきりがないくらい繰り返して、繰り返して……手に入ったお金を眺めている間は、罪悪感は忘れられた」
「……そんな風には見えませんね」
「はは。でもやっぱり、変なことはするものじゃないね。困ったことにそれも長くは続かなくてさ。同じ人ばかり相手してると、やっぱり飽きられるのよ。それで次第に稼ぎもなくなって、ついには素寒貧すかんぴんってね」
項垂れて長い髪が隠す表情はここからじゃよく分からないが、おそらく――
「そんな中で最後に出会ったのが、大金を貢いでくれる男だったんだけど――これが一番の過ちだったわ」
「過ち……?」
「毎度毎度、まあ『あれ』なしに。そりゃあ妊娠もするよ」
「……っ……!」
何と返せばいいのか。
俺の悩みなんか、幼く思えるくらいに壮絶だ。
言い渋っていた理由も考えずに――今になって、聞いたことを激しく後悔した。
「収入なんてなかったからさ、病院にかかることも出来なくて、それで――てわけ」
「……それは、その……」
「聞かなきゃよかったって思ってるでしょ。いいよ、君なら」
「あの、何というか……ごめんなさい、人の気も知らず。先ほどのことも」
「さっき? ああ、別にいいよ。本音だし。今はもう、何ともないから大丈夫」
穂坂さんは袖で涙を拭うと、薄く微笑んで雲を見上げた。
「自殺しようと決断した日ね、君みたく夜子さんが登場して。最初は何事かって思ったんだけど、あの人は本当に凄いよ、言葉一つで私の気を変えてみせたの。おまけには過ぎる、居場所と給料までくれて……感謝してもしきれないなぁ」
「穂坂さん……。それて、その…結局、赤ちゃんは?」
「望まないとは言え命は命、でもやっぱり、私はお母さんにはなれないなって思った。だから、何とか頑張って産んで、事情をちゃんと話した上で無理言って母方の祖父母に引き取ってもらったわ。大喧嘩になったけどね」
「そう、ですか……」
「申し訳ないことこの上ないんだけどね。でも、私が育てるより、おろしてしまうより、それが一番良かったと思ってるわ。本当よ?」
「それは……ごめんなさい、俺には何とも言えないです」
「いいわよ別に、気なんか使わなくたって」
笑顔を作って俺に向き直ったが、それが強がりだということは、流石の俺でも理解出来た。
「しかし、芳樹は何か不思議な空気を持ってるよね」
「そうですか?」
「うん。つい話し込んじゃった。涙まで流して、みっともないったらないよ」
「そんなことは……ないと思います」
「ふふ、ありがと。君は優しいね」
赤く腫れた目が、俺の瞳を真っすぐに見つめてくる。
その双眸は、どこか、少しすっきりしたようにも見えた。
「戻ろっか。事務仕事が残ってるの、すっかり忘れてたよ」
穂坂さんは立ち上がって俺を飛び越え、ドアノブに手をかけた。
「手伝います」
「ありがと。あ、今言った『君は優しいね』ってやつ」
「?」
「能力は使ってないから安心して。じゃね」
短く手を振って、穂坂さんはさっさと階段を駆け下りていく。
穂坂茜が持つ能力は、確か――
瞬間、心臓が大きく跳ね上がるのが分かった。
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