脳
「さて、昭夫や」
青年達の会話が一段落付いたところで、執国斎が剣持に向かって声をかける。
「そろそろ、『診察』をはじめようか」
亜麻子のほんわかとした穏やかな雰囲気に触れ、厳つい顔をほころばせていた剣持だが、執国斎の言葉に、すぐにいつもの眉間に皺を寄せた表情に戻る。
「お願いします」
剣持の言葉に、運国斎と執国斎がたちあがり、「こっちにおいで」と剣持を促す。
亜麻子に軽く会釈をして、剣持もふたりに続き、応接間を出て行った。
三人が出て行った応接間の大きな重い扉をみつめ……亜麻子が軽く、溜息をついた。
「疲れましたか?」
太一郎が、優しく亜麻子に声をかけた。
「あっちゃんのおうちは代々続くお武家様ですから、メヂカラが強くてねえ……。初めてのヒトはあっちゃんに会うと緊張感がスゴいと言います」
「あら。わたくし、平気。あっちゃんさま、とても面白くて素敵な方よ」
亜麻子は微笑んで、背の高い太一郎を見上げる。
「でも、『診察』って? おじいさま方は発明家で、お医者様ではありませんよね。あっちゃんさまの、何をご診察になるの?」
「ああ、あっちゃんはね……」
そう言いかけて、太一郎は次に続く言葉を止める。
「昭夫坊ちゃまはヒトの貌と名前を覚えることがおできになりませんので、たまにおじいさま方が練習につきあっておられるのですよ」
太一郎が言いよどんだ言葉を、執事の雨峰が受け継いだ。
「ヒトの貌と名前を覚える練習をすることを、旦那様方は『診察』と呼んでいらっしゃるのです」
ヒトの貌と名前を覚えることができない……といっても、ヒトに出会う機会が多ければそれだけ、忘れてしまう顔も増える。亜麻子は深窓の令嬢で、出会う人間など家族の他は女学校の友だちと奉公人くらいなものだったが、それでも普段出会うことのない風呂番の下男や洗濯係の女中に、間違えて側近の女中の名で呼びかけてしまうことなどしょっちゅうある。剣持は警視庁捜査一課の刑事だというから、それだけヒトに出会う機会は多いはずだ。だから、忘れてしまう人物が出てきても仕方がない。
亜麻子は、剣持の「症状」をその程度のことだと軽く考えていたが……。
「なにせ、5歳の頃から一緒にいる俺の顔も忘れるほどだからね」
太一郎が、悲しげに目を伏せた。
「忘れる前にお会いになればよろしいじゃない」
そんな太一郎に、亜麻子が明るい声で話しかけた。
「……え?」
「太一郎様、以前は毎日お会いになっていたんでしょう? だけど、大人におなりになって、毎日はお会いになれなくなったのではございませんこと?」
「ええ、そりゃ、前ほどには」
「では、以前のように毎日毎日、お会いになればよろしいのよ」
「毎日……ですか」
「ええ。毎日。わたくし、あっちゃんさまが気に入りましたの。忘れて仕舞われないように、毎日、毎日、お会いしに参りますわ」
無邪気な亜麻子は、優しい天使のような笑顔で、太一郎に微笑みかけた。
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