婚約者

「いつもながらひどい記憶力だな、あっちゃん」

 洗練されたハイトーンの声がして、剣持はその声の主を振り返る。

「……顔と名前は忘れても、声は忘れない。その声は……太一郎!」

 1週間ぶりに思い出す、太一郎の顔がそこにあった。

「……え? あっちゃん、ホントに俺の顔、忘れてたの?」

「忘れたんじゃない。忘れようとしても思い出せないんだ」

 1週間見ていないだけで親戚の顔を忘れるのかと慌てる太一郎の顔を、剣持はまじまじと見つめる。

 忘れられた太一郎は諦めたように溜息をつき、隣の女性に微笑みかけた。

「……えっと?」

 女性の顔に目をやって、剣持は首をかしげる。

「……雨峰さん、太一郎に妹は居ましたっけ?」

「何をおっしゃいます、坊ちゃん。この方は太一郎坊ちゃんの許嫁でいらっしゃいますよ」

「許嫁?」

 太一郎の婚約者であると聞いて、剣持はさらに女性の顔を見つめる。


 黒く、長いストレートの髪。柔らかい印象の、パステルブルーの裾の長いワンピース。妙齢の女性のたしなみとして薄く化粧は施しているようだが、頬紅も口紅もピンクベージュのワントーン。

 30歳の太一郎の許嫁というからには軽く20歳は超えているのだろうが、銀座で流行のモダンガールとは一線を画す、華族のお嬢様然としたその女性を見て、剣持はただ素直に「地味な女だ」という感想しか持つことが出来なかった。

 

「あっちゃん。そんなに見つめたら、亜麻子あまこさんに失礼だ」

 太一郎が、剣持と女性を引き分ける。

「おや、これは失礼」

 剣持はちっとも失礼には思っていない表情で、亜麻子と呼ばれた女性を見つめる。

 華族のお嬢様のたしなみか……。亜麻子はそんな剣持に向かって少し微笑みかけただけで、一言も発しようとはしなかった。

「初めてお目にかかる。わたしは警視庁捜査一課、警部補の剣持昭夫と申します」

「ごきげんよう。剣持様」

 そこでやっと、亜麻子が口を利いた。

「子爵、藤島我門ふじしまがもんの長女で、藤島亜麻子と申します。以後、お見知りおきを……」

「亜麻子さん、あっちゃんに『お見知りおき』してもらうのはちょっとムリだよ」

 多少からかい気味に、太一郎が亜麻子に囁く。

「あっちゃんは他人の貌を覚えておくことが出来なくてね……。俺なんか25年も一緒にいるのに、この有様だ」

「あら。そうなの? でも、それならそれで『初めまして』が何度も言えるわ」

 不思議なことを言って、亜麻子は剣持に微笑んだ。

「初めまして、あっちゃんさま」


 その微笑みを……。剣持は以前、どこかで見たことがあるような気がした。


「失礼だが以前、どこかでお会いしたことはありませんか」

 不思議なことを、剣持は亜麻子に尋ねる。

「わたし、ヒトの貌を覚えることが出来ませんでね。だが、あなたの雰囲気はどこかで見覚えがある。どこかでお会いしたことがあるようでしたら教えていただきたいのだが……」

「いいえ。わたくし、女学校で育ちましたので……同じ年代の男性には、兄と弟以外ではこの太一郎様以外にお目にかかったことはないと思いますわ」

 亜麻子はそう答えて首を振る。

「そうですか……いや、そうでしょうな。失敬。誰か、知ってる女性に似ていたような気がしまして」

「あっちゃんが知ってる女性なんて、結宇かおばさまくらいじゃないか」

 太一郎のからかいに、剣持は的を射られたような気持ちになる。

「ああ、そうか、結宇だ」

 太一郎の言葉に、剣持が大声で笑った。

 剣持が急に笑い出し、太一郎も「そういえば」と笑い出すので、亜麻子は不安げに首をかしげた。

「結宇?」

「あっちゃんの娘だ。今年、数えで7つになる。あっちゃんに全然似ていなくて、穏やかでおしとやかな淑女レディだよ」

「まあ! 7つの子と、わたくしが似ていると……」

 亜麻子は怒りかけるが、「でも、淑女レディでいらっしゃるのでしたら……」と、気持ちを落ち着ける。そして、やがで穏やかに剣持に微笑みかけた。

「結宇さま。是非、お会いしたいですわ」

 亜麻子の言葉に、剣持は頷く。

「では今度、連れて参りましょう」

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