太一郎
「昭夫ぼっちゃま! そんないたずらをなさらなくても、坊ちゃまのお食事くらい、すぐにご用意いたしますのに!」
執事の
「坊ちゃまはやめてくださいよ、雨峰さん。ウチは曾祖母の代に剣持家に嫁に行った身。山中の名は受け継いでないんですから」
「山中のお名がついていようがいまいが、関係ございません。昭夫坊ちゃまは98人もいる旦那様の御子孫方のなかで、定期的に旦那様をお見舞いに来てくださる唯一の玄孫様なのですから。雨峰は嬉しいのです」
雨峰は人の善い笑顔を浮かべると、猫舌の剣持にぬるめのアールグレイを差し出した。
「98人もいる子孫の中で……といいますが、俺の他にももうひとりいたでしょう。ええっと……ほら、アレ。俺と同い年の……アレです」
「昭夫坊ちゃま、またお忘れですか」
親戚の名前を思い出せない剣持に、雨峰が顔をしかめる。
「いや、思い出せそうなんです。顔はわかってる。えっと……一朗太じゃなくて……太郎じゃないし……ああ、そうだ、えっと、太一郎」
「はい、正解でございます」
太一郎……とは、剣持と同じく執国斎の玄孫である、山中太一郎という男のことだ。
生まれた年も同じ。同じ尋常小学校、高等小学校を経て、同じ大學の同じ学部、同じクラスで毎日席を並べていたというのに、たった1週間会わないだけで、剣持は太一郎の顔も名前も忘れてしまうという。
「あいつは顔も名前も平凡すぎて、全然記憶に残らないんです」
剣持はしれっとそんなことを言うが、それは剣持のウソだと言うことは、運国斎も執国斎も、そして雨峰も知っている。
山中太一郎は、平凡という言葉にはほど遠い、美貌の経営者である。
執国斎は「若い頃の自分に似ている」と言うが、確かにその通り、若返り手術を行った執国斎によく似た、穏やかで落ち着いた、優しい顔立ちをしている。
頭脳は明晰。剣持は身長180センチを超える巨躯の男だが、太一郎も175センチほどの長身。生まれつきの育ちの良さも加わって、まさに「御曹司」と呼ぶにふさわしい男だが……。
そんな男にも、欠点はある。
若干、ウザいのだ。
育ちが良すぎるのが原因であろうことは、太一郎を見た誰もが思う。
優しくて人当たりが良く、さらに美しいその男は、人を嫌うことをしない。
生まれつき人を嫌うという感情を持ち合わせていないのだから、「どのように振る舞えば人から嫌われるか」ということも気にしない。
太一郎の偏った優しさや、こだわりの強い性格、穏やかでしなやかな「王子様然」としたその仕草は、日々、荒くれた男達と対峙し、肉体と精神を鍛え上げてきた武家育ちの剣持とは相対するもの。
小さな頃から共に育った親戚で、自分に一番近しい男だという認識があるからこそ、剣持が少なからず太一郎に苦手意識を持っていることを、小さい頃から2人を見てきた雨宮は知っている。そんな感情があっての「忘れたふり」なのだろうと……雨峰は、剣持の子どもっぽい考え方を少々、可愛らしくも思っていた。
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