剣持警部補

 それどころか、玉野井家の屋敷の大きな玄関門を出たところで、小野寺は「お気の毒さま」と、大きな溜息をついた。

 左京院煌子がどんなに美しく、麗しく、限りない一夜を与えてくれたと言っても、所詮は一夜限りのこと。

「吉原随一の涼風太夫でも、一夜たかだか8000円だというのになあ」

 冬の夕暮れの寒さに震え、着込んだトレンチコートの襟を立てながら、剣持は、先ほど出てきた大きなお屋敷を見上げて嘲笑わらった。

「8000円あれば、エレキテル式人力車が一台買えますね」

「しかも最新型がな」

「じゃあ、俺は涼風太夫よりも左京院煌子よりも、エレキテル式人力車が良いです。車はニンゲンを裏切らない」

「……ちがいねえ」

 剣持と小野寺が、顔を見合わせて笑う。

「左京院煌子は、童貞ばかりを狙う」

 剣持が小さな声でそう呟き、小野寺がそれを警察手帳に書き記した。

「女を知らないから、籠絡しやすいと言うことなんでしょうかね」

 自身もまだ童貞の小野寺だが、それを剣持に悟られぬよう、したり顔で今回の被害者達を分析する。

「女が欲しければ、お父様もうさまが勧める縁談に乗るか、家の女中にでも手を付ければ余計な虫が付かずに済むものを」

 剣持が声も潜めずにそんなことを言うので、見送りに出てきていた若い女中がキッと剣持をにらみ付け、小野寺が慌てて剣持を止めた。

「そんなことを言いますが……剣さんだって、30にもなって奥方もおられないじゃあないですか。いつかは黒蜘蛛が剣さんのまえに現れるかもしれませんよ」

「おや? お前には言っていなかったか。奥方なら、17のときに一度はもらった」

 剣持は巨漢で凜々しく、いかにも「武士」「男前」という言葉が似合う顔立ちだが、口は悪く、無精でガサツ。女にモテそうな要素がまるでない。だから、例え一度でも剣持が妻帯者だったということに、小野寺は驚いた。

嘉女かめという名だ。母の遠縁の娘だったが、両親が亡くなって身寄りがなくなり、ウチで引き取ることにしたんだ。嘉女はそのとき18だったから、いまから養女にしてどこぞに嫁に出すよりは、最初から嫁にもらったほうが生涯、面倒を見てやれると親父が言って……4人兄弟の中で一番年が近い俺に嫁ぐことになった。めっぽう美人で、気立ても良くて……10年連れ添ったが、先年の流行病に勝てずに亡くなったよ」

 小野寺と出会う前の話だと言って、剣持は警察署に足を向ける。

「美人ってことは、奥さんの貌、ちゃんと覚えてるってことですか?」

 小野寺は些か驚きながら、そんな至極当たり前のことを聞いた。


 だが……小野寺の驚きは、【剣持昭夫】という人物を知る人間なら、誰でも共感することである。

 剣持は、それほどに人の顔を覚えることができない。

 小野寺が知る限り、剣持がなんとか見分けることが出来るのが、自分の母と父の顔。家督を継いだ長兄の顔。捜査一課の課長の顔と、相棒の小野寺の顔……と、なんだかんだで毎日見かけ、忘れる前に思い出すことが出来るこの5人の顔だけだ。

 剣持は、本人の言うとおり4人兄弟。上から3番目にあたる。では、次兄と弟の顔は忘れたのかというと……その通り。忘れたのである。

 剣持家は士族の出。8歳離れた長男は、家督を継ぐ子だからと生まれたときから大事に育てられた。4歳離れているという次兄は、生まれてすぐに養子に出され、養子先の家督を継いだ。養子先とは親戚づきあいをしているから、少なくとも週に1度は会っているはずなのだが、この次兄というのが取り立てて目立つ特徴のない至って平凡な男で、会えば「兄貴」「昭夫」と呼び合うものの、道で「昭夫」と呼びかけられてもどこの誰だかわからない。

 3番目の剣持は、ちょうど長兄が流行病で寝込んでいたときに生まれた子で、万が一長兄が死んだらこの子が家督を取らねば……と、生まれたらあげる約束になっていた養子先を断って、剣持家で育てられた。

 12歳年下の弟は今年18になるはずだが、父親が不倫の果てに出来た子らしく、母方で育てられていると言い、10年ほど前に一度、二度は見かけたが、それっきり会っていない。


 このように、兄弟の顔すら覚えられない剣持だから、3年前も前に亡くしたという妻の顔を覚えていることなど、小野寺にはにわかには信じられなかった。

「そういえばもう一人……こいつの顔だけは絶対に忘れない」

 と、剣持がいつになく顔をほころばせ、小野寺に警察手帳を差し出す。小野寺が受け取った警察手帳を開くと、中には愛らしい振袖を着付けた、女の子の写真が貼り付けてあった。

「これは?」

「娘の結宇ゆうだ」

 いつもはコワモテの剣持が、蒸したてのプディングのように熱々でとろけるような頼りない表情でそんなことを言うので、小野寺は思わず腰を抜かす。

「……剣さんに、娘……?」

 眉が太く、鼻が大きく、顎の骨が角張った、士族出身であることが一目見てわかる顔だちの剣持だが、写真の中の美少女は、そんな剣持の見た目の遺伝子を一切受け継がないという幸運に恵まれていた。

「……剣さんの、娘?」

 大事なことなので、小野寺は二度尋ねる。

「似てないか?」

「つゆほどにも」

「さもあらん。結宇は嘉女にそっくりだからな」

「でしょうね」

 娘の顔立ちやたたずまいの愛らしさから、剣持の亡き妻である「嘉女」という女性がいかに美しく嫋やかな女性であったかが見て取れて、小野寺は在りし日の嘉女の姿を思い浮かべ、ほうっと溜息をつく。

「可愛い子ですね。いくつですか」

「今年で数え7つになる。今は母が育てているが、女の子を育てたことがないから、振袖だのドレスだの、とにかく着飾らせて人形のような扱いをしている」

「それはそれは……こんなに可愛いお孫さんだ、さぞかし、おばばさまは可愛がっておられましょう」

 ただすなおに、小野寺は写真を見たそのままの感想を、剣持に伝える。

 剣持は警察手帳を小野寺から受け取ると、それを大事そうに胸ポケットにしまった。

「後添いは、もらわないんですか」

「父は、結宇が可哀想だから後添いを探してやると言い、母は後添いとの間に新しい子が生まれれば結宇が可哀想だからやめろといっている。まあ、いずれ父が見つけてきた女が俺を気に入ればそういうことになるんだろうが、いまのところはないな」

 剣持の言葉から、結局のところ、後添いを自分で探す気持ちも、また、その後添いを気に入る気持ちもないのだ……と、小野寺は解釈した。

「剣さんが、妻帯者だったということは……黒蜘蛛が剣さんを狙うことはありませんから、安心ですね」

「……だが、お前は狙われるんだぞ、小野寺」

 剣持に童貞であったことを見透かされていた小野寺が、ぐっと言葉を詰める。

「20歳を過ぎてまだなお純潔を守ってるんだ。次は30まで頑張るが良い、小野寺君」

 大げさに両手を広げ、剣持が大きな声で笑うと、小野寺が口惜しそうに剣持を睨む。

 だが、童顔の小野寺の上目遣いは怖いというより愛らしい。そんな可愛い小野寺の表情を、また剣持がからかった。



 だが、その一方で、剣持のもう一つの脳は、別のことを考えていた。

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