盗品

「で、あんたいったい、【黒蜘蛛左京院煌子】に何を盗まれたんです」

 警視庁捜査一課の剣持昭夫けんもちあきお警部補は、いらだちの表情を隠さず、手持ちのタバコに火を付ける。

「ああ、『私の心です』なんて戯れ言は結構ですよ、そんなことは見ればわかりますから」

 煌子を訴えておきながら、一晩、二晩経って訴えたことを後悔し始める男の姿を、剣持は何人も見てきた。

 だから、次に言う言葉もわかっている。

「警部補さん、ボク……煌子を訴えることを辞めようと……」

 男の声に、剣持が合わせる。

 言った言葉も溜息をつくタイミングもぴったりで、男は驚いて剣持の眉の太い、色黒の顔を見つめた。

「気を悪くせんでください。この台詞を聞くのは、あなたで40人目なものでね」

 剣持がそう言うと、新米刑事の小野寺昌明は大笑いしながら、自分の警察手帳に「正」の字を書き記す。剣持の言うとおり、小野寺の警察手帳にはちょうど、「正」の字が8個出来た。

「はあ……」

 怪盗黒蜘蛛に魅せられた男……玉野井司はあからさまに気を悪くした表情ながらも、自分よりはるかに巨漢の剣持に何も言えずに顔を伏せる。

「華族さまの恋愛ごとのもつれにつきあっていられるほど、警視庁はヒマじゃぁないんです。呼んでおいてもうけっこうなどと言う輩がおりましたら私……」

 火の点いたタバコを、2回、3回とくゆらせて、剣持はその鋭い眼光でなよなよとした美青年を見つめる。

「あ、いえ、訴えます、ボク、煌子を訴えます!」

 司は慌てて、両手を振って見せた。

「ああ、そうですか、そうですか。それはよかった。府民からお預かりしている大事な税金を無駄に使わずに済みます」

 剣持はその大きな口の両端をあげて、司に威圧的な微笑みを向ける。

 40件にも及ぶ【怪盗黒蜘蛛】がらみの事件のうち、剣持がその屈強な見た目の怖さから被害者に訴えを取り下げられたのは12件。そして、一度取り下げかけた訴えをこの威圧的な微笑みで差し戻させたのは、今回で28件目となる。

「ところで、山野さん」

「剣さん、『野』しか合ってませんよ。このお坊ちゃんは玉野井さんです。たーまーのーい!」

 小野寺が、即座に剣持の間違いを指摘した。

「ああ、これは失礼。熊野井さん」

 冗談を言っているわけではない。剣持はいたって真面目に、司の名を呼んでいる。

 剣持は、刑事でありながら人の名前と貌を覚えることが出来ない。

 先天性相貌失認という病なのだと剣持は自分で言うのだが、ただ単に刑事という職業柄、人生で出会ってきた人の数が多すぎることと、剣持自身があまり他人に興味が無いが故に人の顔と名前が一致するまえに出会ったことすら忘れてしまうことに由来すると、小野寺は確信している。

 だが、「相貌失認症」であれなんであれ、事件途中の被害者の顔と名前が一致できないということはあってはならない。だから、剣持の相棒の小野寺は、人の顔と名前を間違えずに覚え、剣持に伝えるという役割を、自然と果たさなければならなくなっていた。

「いい加減、黒蜘蛛にあなたの心以外の何を奪われたのか言ってもらわないと、こちらも捜査ができないのですよ」

 いらだちの声色を隠さず、剣持は玉野井に迫る。

「はあ……その……10万円ばかり、ちょっと」

「都合したんですか」

「ええ」

 このお坊ちゃまが! と、剣持は心の中で司を殴り飛ばす。

 3万円あれば、東京府の郊外に一戸建ての家が建つ。つまり、10万円もあれば、府内の一等地に家族五人で住むには充分な広さの一戸建てを建てることが出来る。そんな額を、黒蜘蛛に盗まれたのだ……と、司は言った。

「盗まれたんじゃなく、都合したんでしょう。

 ほかの39人の男達に言ったのと同じ言葉を、剣持は司にも投げかけた。

「お願いです刑事さん。お父様もうさまには言わないで!」

 二十歳を過ぎて、なにが「お父様もうさま」だと、剣持は心の中で眉をしかめる。

「お父様もうさまにナイショになさりたければ、警察なんか呼ぶんじゃなかったですな。明日の朝には、お宅の執事からお父様もうさまに筒抜けになりましょう」

 剣持は冷たく言い放ち、相棒の小野寺を促して席を立つ。

 目の前にあったガラスの灰皿に自分が吸っていたタバコを押しつけたが、あと2回くらいは吸えそうだと、火が消えたのを確認してから、朝までウヰスキーが入っていた空き水筒にそれを放り込んだ。

 剣持の貧乏性に、小野寺が顔をしかめる。

「……ああ……そう、これも、皆さんにお聞きしてるんです。みなさんが言う【左京院煌子】の見た目の特徴がどうにこうにも合いませんので、警察としても特徴を掴むために仕方なく……なんです。どうか、気を悪くせんでください」

 剣持は今度は些か声を落とし、深く溜息をついた後、面倒くさそうに司を見つめる。

「左京院煌子の具合……どうでした?」

「……そりゃあ……」

 左京院煌子が、いかにベッドの上で美しかったか。どれほどキスが上手くて、どれほど妖艶で、どれほど自分を愛してくれたか。先ほどまでのなよなよ、おどおどとした態度とは打って変わって、司は耳まで顔を赤らめながら、饒舌に話し始める。

「……ああ、いや、もうけっこう」

 2分も話を聞いてやったところで、まだ話したりないという司を、剣持は止める。

「聞いてきたのはそちらでしょう」

 せっかく、興に乗ってきたところだというのに話を止められ、司が不満げに頬を膨らませた。

「……まあ、そうなんですが。仕事とは言え、他人の睦みごとを40人分も聞くのは些か、耳にも心にも堪えましてねえ……」

 剣持は警部補とはいえまだ30になったばかり。小野寺に至ってはまだ大學を出たばかりの24歳だと言うから、煌子との閨話に身体の一部が赤らんできたのだろう……と、司は勝手な想像をしたが、それはとんでもない誤解である。

 剣持の身体の一部も、小野寺の身体の一部も、司の熱い閨話を聞いてなお、元気に上を向くどころか頼りなく下を向いたまま。


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