2.絡繰屋敷のウンコクサイ

明都(みんと)

 江戸幕府より大政奉還がなされ、新民政政府が日の本の元号を【明都みんと】と改めてから、150年あまりが過ぎた。


 時代が【明都】となる少し前の江戸……今でいう、東京府のどまんなか、日本橋の一角におかしな老人が住んでいた。

 名を、山中運斎という。

 だが、どこの坊主がどう間違えたのか、その老人に向かって「やまのなかでうんこくさい」と呼びかけたものだから、たまらない。

 やがてその老人の本名をみんなが忘れ、「運国斎先生」と呼ぶようになった。


 この運国斎先生、何故【先生】と呼ばれているかというと、それはそれなりに有名で、優秀な発明家だったからだ。

 運国斎の発明品として一番名高いのはなんといっても絡繰車だろう。

 江戸末期にはすでに人力車という乗り物があったが、運国斎は人が引っ張るこの乗り物を、絡繰人形が引っ張るように変えてしまった。

 当時、江戸には【兎院放斗うさいんほうると】という名のめっぽう足の速い飛脚がいたのだが、彼の足の速さに絡繰人形を合わせた。絡繰人形の頭や両手両足には8本の導線が付いており、操縦者は手元の操縦箱でその導線を操りながら電流を送り、人形を目的地まで導くという仕組みである。

 小野寺が「エレキテル式人力車」と言っていた乗り物がまさにそれだが、これが売れに売れ、運国斎は一代で巨万の富を手に入れることになった。


 だが、運国斎の発明は、これだけにとどまらない。

 大きな鉄と木の棒を組み合わせ、自分の家の広大な庭に敷き、道を作った。

 運国斎はその道を「線路」と名付けると、車輪の付いた大きな木箱を線路の上に置き、その大きな大きな木箱を、【白鳳はくおう】という名の力士に見立てた絡繰人形に引かせた。

 運国斎は自身の孫を木箱の上に乗せ、白鳳に見立てた絡繰人形を操作させて遊ばせたが、この遊びは長らく、孫のお気に入りの遊びとなった。


 孫はこの動く木箱を「電車」と名付け、幼いながら、祖父を見習ってさまざまな大きさや速さの「電車」を作ってみせた。

 成長した孫はやがて、幼き日に祖父の運国斎が作ってくれた庭の線路を引き延ばし、引き延ばし、神田、秋葉原、御徒町、上野、鶯谷……と、東京の要所に「駅」を置き、街の人々が用のある「駅」で降りられるようにしてやった。


 これが今でいう、「東京府環状線」の始まりである。

 孫は出発点となった我が家の庭を「東京駅」と名付けた。


 東京の街には線路が増え、孫は東京駅の駅長として東京の人々から親しまれたが、ある日突然、ふと閃いて、なんと東海道を突き抜けて、線路を大坂の街まで伸ばしてしまった。

 運国斎が作り上げた財力がなせる業だったが、孫は木箱を鉄の丈夫な箱に変え、白鳳に見立てた絡繰人形に、さらに【朝翔流あさしょうりゅう】という力士に見立てた木箱を押す役目の絡繰人形も加え、「高速電車」という名で売り出した。

 東海道を人の足で歩き、大坂までは一ヶ月。馬を使っても1週間はかかっていたが、絡繰り人形が引く高速電車を使えば一日半もあれば大坂まで着くことが出来る。


 運国斎の孫は、祖父の名「運国斎」になぞらえて「執国斎」と呼ばれたが、やがてその「執」の名の通り、祖父と自分で築き上げた財力を元に財界を手中に治め、国斎商社という日の本で一番大きな会社を設立し、やがて日の本の経済を執りまかなうまでにその会社を成長させた。

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