第3話 幼なじみのこと

僕は本を閉じて、例の女生徒を探し始めた。

休み毎の読書時間が失われるのは、思っているよりも痛手ではなかった。

今は物語の続きより、変わってしまった兄の遠い目が気にかかっているのだと気が付いて、栞を挟む事が自然にえらばれた。

先ずは兄と同じ3年生から、見付からなければ2年生へと徐々に探すつもりで、休み時間になると必ず3年生の教室前へ出掛けるようになった。

余りにも通いつめているから、兄の教室前を通り過ぎる度、見付かって咎められやしないかとヒヤヒヤした。

僕のこの行為は間違いなく、兄が周りに隠している事情を暴こうとする行為に他ならなかった。

悪行とまではいかずとも、お節介である事は間違いない。

そうと自覚しながらも、ただ時が過ぎるのをじっと待っているかのような兄の姿を横目に、このまま黙っていたら何かが手遅れになるという、確信めいた予感があった。

何か、の正体は僕にもわからない。

けれど、確かな感覚だった。

兄は優しいから、周りの心配をひしひしと感じているに違いない。

けれど、周りに心配をかけないように振る舞う気力さえ起こらない程の事が、きっと兄の中で起きている。

1週間、休み時間の殆どを絶え間なくうろついても、例の女生徒とはなかなか出会えなかった。

最初は移動教室のタイミングだったり、風邪で2、3日休んだりしているのかも、と思っていたけれど、たった5クラスしか無い中で、ここまで見つからないだなんて。

もしかすると、例の女生徒は人の気力や魂を吸い取る妖怪なんじゃないだろうか……とまでぼんやりと思った。


「よう、真一。何してんの?」

そう名指しで声をかけられたのは、僕が3年生の教室前をうろつきはじめてから1週間と3日目の、6限と7限の間に当たる休み時間だった。

僕は緊張しながら振り返り、その顔を確認すると同時に緊張は自然と融けた。

「翔ちゃん、久しぶり。」

声の主は、兄と同じクラスの菅原翔太だった。

彼は僕らの家の裏手に住んでいて、小さい頃からずっと兄と一緒にいる幼なじみだ。

この学校の剣道部に所属している翔ちゃんは、高校に入ってからも、まだバスケ部にいた頃の兄と一緒に帰ってくる事が多かった。

少し年の離れた僕は、兄と翔ちゃんが中学に上がって以来なかなか一緒に遊べなくなってしまったけれど、小さい頃はよく遊びに連れて行ってもらったものだ。

その頃の翔ちゃんは、静かな僕ら兄弟とは打って変わって明るく朗らかな少年で、剣道を習っている為活発で、礼儀も正しく、近隣の子供たちのリーダーでいて、その上大人達からも可愛がられていた。

その無敵の性質は今も少し形を変えて健在のようだった。

他の生徒が廊下を歩いていると思えば、毎回の様に「よぉ翔太」と声を掛けて通り過ぎて行く。

ここの所あまり話していなかったから、すっかり見落としていた。

よくよく考えれば翔ちゃんは、僕が緊張せず話す事の出来る唯一の先輩だ。

「最近よく3年生の教室前にいるよな?兄貴に用事?」

やっぱり、僕がウロウロしている事は気付かれているようだ。

「ううん、兄ちゃんじゃ無くて……ちょっと人探しに。」

コソコソしていた自覚はあったので、正直ばつが悪い。

僕は昔から翔ちゃんに隠し事が出来なかった。

翔ちゃんの明るい素直さに嘘をつくことが後ろめたいのか、それとも罪悪感からか、自分ではわからないけれど。

「知ってる奴だったら呼んでくるよ、名前は?」

「それが、わからなくて……女の人なんだけど、髪が短くて…。」

とまで言いかけた所で、翔ちゃんは僕の肩を突然捕まえ、自分の元へ引き寄せた。

翔ちゃんも兄に負けず劣らず背が高いから、僕と並ぶとまるで男女のような体格差が目立った。

僕はその包み込んでくるような迫力にちょっとだけ悔しさを覚える。

あと2年で僕もこんな風になれたらいいのに。

「もしかして青春?どのセンパイに惚れちゃった?」

翔ちゃんはからかう様に、ヒソヒソ声で耳打ちする。

「違うよ!」

僕は慌てて翔ちゃんの重たい腕を引き剥がした。

身体の大きさに対してだろうか、3年生の余裕にだろうか、実に色々と悔しい。

何の報酬も無いまま、無情にも予鈴が鳴り響いた。

「ふーん、何でもいいけど、出来る事があったら協力するよん。」

なんて巫山戯て手を振りながら、翔ちゃんは楽しそうに教室へ戻って行った。

僕はその後ろ姿を目で追いながら自分の教室へ足を向けた。

何か翔ちゃんに協力してもらえる事があるだろうか。

そう考えた瞬間、不意に例の女生徒の写真が自分のスマートフォンに眠っている事を思い出した。

春休みの間に悪戯心で撮影した、たった1枚の手がかりだった。

これを交友関係の広い翔ちゃんに見せれば、きっと直ぐに女生徒は見付かるだろう。

僕はこの1週間と数日の努力を少し勿体なく思いながらも、翔ちゃんとの再会が無ければ、写真を見せられる先輩が他に居ない事を考えて自分を諌めた。

先輩どころか、同級生でさえ話せる相手が限られている……これは、僕の欠点なのかもしれなかった。

今日は今から始まる7限で、全ての授業が終了する。

下校時に3年生の教室周辺をうろつくと、兄に見付かってしまうかもしれないから、明日の1限が終わってから直ぐ翔ちゃんの元へ行こう。

僕は自分の教室へとたどり着き、7限の授業を受けながら、進展の予感に逸る心を押し込める事に苦心した。

具体的には、いつもの何倍もの集中力を込めて数式を解くことに始終して、授業が終わる頃には、いつもの何倍も疲労していた。


……今日はこのまま円筒図書館の地下へ行って、あの落ち着く空間で本を読もう。

そう思い立って、僕は帰りのHRが終わるとすぐさま鞄を纏めて、円筒図書館へ向かった。

先日、円筒図書館に入る為必要なカードが、1年生にも漸く配られた。

図書の盗難を防ぐ為のゲートを通るカードは、謂わば改札に対するICカードのようなものだ。

以前発行してもらった市民カードでなく、名前入りの生徒用カードでゲートをくぐったのは、今日が初めてだった。

カードの能力は全く変わっておらず、見た目が違うというだけの事なのに、この図書館の「お客さん」から「持ち主」になったような心持ちがした。

少しだけ舞い上がった気持ちで、春休みにそうしていたように、あまり人気のない静かな図書館の、更に人気のない地下へ降る。

階段を1段、また1段降りてゆく毎に、空気は徐々に冷えていった。

半地下という構造上、下に行くほど冷えてしまうのは当然なのだろうけれど、その体感は神話によく登場する冥界下りの神秘的な印象を彷彿とさせる。

そんな非現実な表現を口にする相手もいないので、ただひっそりと楽しみながら階段を降ると、いそいそといつもの静かな自習デスクへ向かった。

そのブロックに辿り着き、古い紙の匂いが飛び込んでくると共に、異変が起きている事に僕は気が付いた。

異変と呼ぶには余りにも平凡な出来事なのだけれど、この自習デスクとスペースを自分専用の秘密基地のように思っていた僕は、少なからず落胆した。

自習デスクには僕の物でない学生カバンが無造作に置かれ、側の書棚の前には、髪の長い女生徒が、こちらに背を向けて立ち尽くしている。

彼女は僕の立てた足音に気が付くと、その背中まである長い髪を翻して、僕を振り返る。

その顔を見て、僕は思わず声をあげた。

「きみ、は……その、あの」

女生徒は一瞬怪訝な顔をして、ふ…とため息をついてからこう言った。

「気にしないで、ただの幽霊よ。」

「幽霊?」

僕は彼女が何を言わんとしているのか理解出来ず、つい聞き返した。

「わからないならいいんだ。」

ふふ、と彼女は笑った。

この笑顔を、僕は知っていた。

はっきりと確信が持てたわけではないけれど、目の前にいる彼女は、僕が探している女生徒その人に違いなかった。

予想外のあっけない出会いに、僕は二の句を次ぐことが出来ず、不審にもこう言った。

「君の……名前は……?」

やだ、そんな映画いつか流行ったよね。

そう笑われてしまった。

「ナナコ。君は?」

ナナコに聞き返され、なんとか声を絞り出した。

動揺はまだ止まず、質問が頭の中で交錯している。

「真一です。」

「うーん、ちょっと惜しい。」

何がだろう。

僕は一度大きく深呼吸をすると、漸く少し落ち着いて、ナナコに尋ねた。

「何年何組の生徒ですか?」

「うーん、どこだろうね。」

ナナコは少し困ったようにそう答えた。

僕はそれを、はぐらかされたと感じた。

どうしてそんな事をはぐらかすのか、そこにどんな意味があるのか、皆目見当もつかない。

さっきの幽霊という言葉も、僕にはどういう冗談なのか理解する事ができなかった。

変な人だ、という警戒心が少しずつ湧いてくるのを実感しつつ、僕は質問を変えた。

今度は春休みに兄と彼女がいた教室を窓越しに指差す。

「春休み、あの教室にいた人?」

「さあ、どうだろう。」

どうだろうとは、どういう事だろう。

今度はからかわれているのだろうか。

僕は苛つきながら質問を続けた。

「ここで、何してるの?」

「王子様を探してるんだ。」

僕はため息をついた。

変な人だ。間違いなく変な人だった。

でないと言うならば、僕と会話したくないという事を、暗に体現しているに違いなかった。

僕は親切にも後者と受け取って、少しの嫌味を込めて謝罪する。

「ごめんなさい、お邪魔しました。」

「いいえ。こちらこそ。」

ナナコはそう言うと、また本棚に向き直った。

何を読むか吟味している、というより、窓の外を眺めているようだった。

「真一君って変な人だね。こんな所に来るなんて。」

こっちのセリフだった。

「ナナコさんも変な人だよ。」

僕がそう言うと、ナナコは何の感情も込めず、声だけで笑った。

「私、幽霊だからね。」

そう言うと、ナナコは自分のカバンを無造作に引き寄せ、じゃあね、と僕に一声かけて、足速に出ていってしまった。

すれ違いざま、彼女の長い髪から杏のような甘い香りがした。

僕はキツネにつままれたような気持ちで、空席になった自習デスクについた。

僕しか居なくなった空間は、うるさい程に静かだった。

兄は、本当にあの変な人にフラれたショックでああなってしまったのだろうか……?

妙な違和感があった。

それはこの状況や、彼女の発言や、果ては兄と彼女が織り成す会話を全くイメージ出来ない事や、実際に対面した彼女の印象が少し違った事……様々な事が妙に感じられた。

言うなれば、全ての歯車が全く噛み合わず、僕という歯車だけがひとり空転しているような違和感だった。

僕はもやもやとしたままスマートフォンを取り出すと、改めて例の女生徒を確認しようとデータフォルダを遡った。

春休みからそう経っていないから、例の写真は直ぐに見付かった。

そこには、柔らかく笑う兄と、先程のナナコが一緒に写っていた。

どこか違和感はあるものの、間違いなく彼女と同じ顔だ。

僕は、あんな変人と兄が恋人関係だったであろうかという現実に頭を痛めた。

顔だけ見ていれば確かに美人かもしれない……と、思った瞬間、僕は一つの違和感の正体に目を奪われた。

写真のナナコを拡大表示にし、呆気に取られる。

春休みに眺めていた彼女の姿と、すれ違いざまに漂ってきた彼女の髪の香りが、重なって思い出される。

写真に写るナナコの髪は、肩に届かないくらいのショートカットだった。

僕はすぐさまナナコを追い掛けようと顔を上げ、走り出しそうになったが、結局もう追い付けないだろうという諦めがその足を引き留めた。

緩やかな陽射しだけがさざめく地下一階で、僕は力なく座り込むしかなかった。

幽霊だからね。

先程繰り返された彼女のセリフが、僕を動揺させた。

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