第2話 円筒図書館のこと

僕と兄の通う高校は大学付属高校で、高校と大学の校舎が同じ敷地内に建っている。

その矢鱈と広大な敷地は坂のてっぺんにあって、敷地内でも場所によって高低差がかなりあった。

坂の上の方には、ビルみたいに大きな大学の建物が六棟。

そこから少し降ると、何処にでもあるような校舎然とした高校の建物が四棟。

他にも食堂や体育館なんかが何棟もあるけれど、合計した数を僕は知らない。

この広い敷地と、通学路の時点から無限に続いているような坂に、新入生はすべからく絶望感を持った事だろう。

中には鍛えられるからラッキー、だなんて根っからのスポーツマンも居るようだけれど、少なくとも僕は絶望していた。

多少慣れつつある今でも、坂道を目の前にするとため息が漏れる。

そんな傾いた敷地にいくつもの建物を建てて、渡り廊下でそれらを繋ごうとすると、一階から別の建物に渡ったのに、渡った先は二階だった……なんて事が起こるのは誰でもわかると思う。

ちょっと変な気持ちになるけれど、ミステリーでも何でもない、ただの高低差が原因だ。

そんなややこしい建物が殆どの中、殊更説明に困る変わった建物があった。

その建物の地下一階は、隣接する校舎の一階と同じ高さにある、という、ちょっと耳を疑うような説明をしなければならない建物だ。

先ず、敷地内の傾斜を垂直に掘り下げて地面の位置を下げ、低い位置にある隣の校舎と同じ高さに建ててある。それがポイントだ。

建物は茶筒のような円筒形をしていて、その円筒がギリギリに収まるよう掘り下げてあり、周りの傾斜はそのままスロープとして活かされている。

活かされているなんて言い方では齟齬があるかもしれない。

正しくは、予算をかけなくて済むようコンクリートで塗り固めてある、というような粗雑な雰囲気があった。

そのスロープに従って円筒型の建物を回り込みながらワンフロア分の高さを登ると、ちょうど隣の校舎から真反対側に出入口が現れる。

その出入口の設けられたフロアが一階という扱いだから、当然隣の校舎の一階と同じ位置に存在するフロアは地下一階という扱いになるわけだ。

つまりこの建物の地下一階は、半分がスロープで埋まっていて、もう半分は地上に出ているという不思議な状態になっている。

それゆえ地下一階のみに言及すると、フロア片側には窓が無く、もう片側には窓がある、という他に類を見ないデザインをしていた。

これもデザインといえば聞こえがいいかもしれないけれど、塗り固めたスロープ同様の粗雑な理由を薄らと感じて、はじめてこの建物を見た時はちょっと笑ってしまったものだった。

この説明し難い円筒が何者かというと、その正体は研究施設や保管施設、果ては秘密の倉庫でも何でも無い、大学と高校共有の図書館だ。

敷地内でいうと、ちょうど大学と高校の境に位置している。

これは僕がこの高校に入学してから知った話だけれど、実は高校の校舎内にも大学の施設内にも、それぞれに大きな図書室が有る。

この図書館は、その図書室たちが出来るより以前に作られた古い施設で、今では図書室に置くにはちょっとマニアックな本や、なかなか手に取られないであろう分厚い本、大学生の研究に使われる難しい資料を仕舞うのに重宝されているようだった。

それらは主に地下一階の光が当たらない書庫に、眠っていると言っても差し支え無い状態で仕舞われている。

その特殊な資料たちや、不思議な形状や、非対称の窓を除けば、やや小さめの普通の図書館と言ってよかった。


この円筒図書館は、学生が長期休みの期間になると、一般市民が使用しても良い事になっていた。

学校の敷地内にあるものだからちょっと入りづらく、実際に使用する市民は数える程度しか居なかったが、僕はこの円筒図書館に、入学前の春休みから毎日通っている。

わざわざ足繁く通っていたのは、自分の入学する学校を先立って体感出来るという嬉しさに加えて、円筒図書館にある素晴らしい空間の虜になってしまってからだ。

その空間は、先述のマニアックな本や資料が置かれている地下一階の、窓のあるブロックだ。

地下一階とはいえ、実質一階にあたる窓からは光が入るため、貴重な本たちは全て窓が無いブロックに寄せられている。

では光の当たるこのブロックには何が置かれているのかというと、きっとこれも高校生や大学生には需要が少ないのであろう、ファンタジー小説や童話、絵本なんかが大量に仕舞われていた。

僕の大好きな本たちだった。

裏板が無い書棚だというのに、窓を背にして置かれているせいで、本たちは日焼けしていて、開くと古い紙とインクの匂いがした。

読む人のなかなか居ない本たちの為の空間には、いつ来ても僕しかおらず、ひたすらに静かだった。

窓を背にした本と本の隙間から漏れる光は暖かく、その光を覗けば窓から外の様子が見て取れた。

けれど、外からは遮光フィルムが貼られているため、しつこく集中して見つめない限りはこちらの姿が外から見える事はない。

置きっぱなしにしてそのまま忘れられているような自習デスクが一組ぽつりと置いてあるのも、僕にとっては素晴らしく思えた。

まるで僕の為に用意された特別な秘密基地のように感じられた。


ここでやっと兄の話に戻るとしよう。

高校生の兄が春休みに入ったと聞き、中学を卒業して暇な僕は、足繁く円筒図書館へ出かけていた。

兄が同じ敷地内の体育館で、春休みも部活に励んでいたのは知っていたので、何度か覗きに行った事がある。

けれど、身体の大きい高校生が全力でスポーツに励む気迫に充ちた光景に負けて、小心者の僕は堂々と見学する事が出来なかった。

体育感の扉に隠れてちらりと見た兄の姿は、僕も周りもよく知っている兄の姿だったように思う。

僕は、かっこいいな、と素直に思っていた。

ところが、春休みも1週間が過ぎた頃だった。

この日も僕は例に漏れず、円筒図書館の地下一階にこもっていた。

お昼も過ぎて太陽は高く登り、窓から射し込む陽は暖かく、優しい光を地下一階に落としていた。

僕はその穏やかな空間に少しぼんやりして、本の隙間から窓の向こうを見るともなく眺めていた。

その窓の向こうに、不意に兄の姿が見えた。

兄はその日の部活を終えたのか、制服姿で、円筒図書館に隣接する校舎の空き教室に立っていた。

隣接しているとはいえ、円筒図書館と校舎の間は10m以上距離が有るし、僕は本に埋もれているし、何より本を守るため窓に貼られている遮光フィルムのせいで、兄の位置からは僕を見る事が出来ないだろう。

僕は自分の存在を兄にアピールする事なく、そのまま兄を眺め続ける事にした。

バスケをしていない時の兄は、ひたすら静かに、音のない人で、何かに喩えるとしたら、風のない湖面のような人なのだ。

その静かな人が一人でいる時は、何をしているのだろうという興味があった。

この日の部活は終わったのか、部活仲間はどうしたのか、何故帰らないのか、と疑問が湧いてきた頃、一人の女生徒が兄のいる教室に入って来るのが見えた。

無論会話は聞こえなかったけれど、二人が特別な間柄だろうという雰囲気が見て取れた。

女生徒は兄の静かな雰囲気によく合う、物静かそうで、優しそうで、肩にかからないくらいのショートカットのよく似合う、可愛らしい人だった。

どこか儚いイメージのある女生徒の笑顔と、それに応える兄の笑顔が春めいて来た陽射しに柔らかく照らされ、まるで小説のような美しさで存在していた。

僕はその2人の光景を目にして、いつまでも対等に子供同士だと思っていた兄弟が、少しずつ大人になりかけているのを実感しつつ、妙に後ろめたい気持ちになっていた。

兄弟って不思議だ、同じ血が流れていて、他人よりずっと近い存在の筈なのに、他人のそんな場面を見るよりずっとむず痒い。

僕はその気持ちを抱えたまま兄と女生徒を眺め続けていた。

その密会は毎日同じ時間に始まり、夕方になると切り上げ、別々に教室を出て、それぞれ帰って行くというルールが有るようだった。

僕は春休みの間、無論、本を読みながらだけれど…毎日その光景を眺める事となった。

離れた場所にいるせいか、まるで僕だけがふたりの物語の読者のような気さえして、後ろめたいながらも勝手に二人を見守っていた。

高校生の恋人同士なら、手を繋ぐくらいしても良さそうなのにと僕は思ったが、兄と女生徒はいつも机を一つ挟んで話し続けているだけのようだった。

いつか兄をからかってやろうかだなんて考えて、スマートフォンでツーショット写真を収めたりなんかしながら、ちょっと微笑ましい気持ちにさえなっていた。

もしかして兄が女生徒に片想いしているだけで、春休みに何かの委員会でも有って、たまたま集まっているだけなのか?と思い始めた矢先、兄と女生徒は一度だけ、不意にキスをした。

二人の間で交わされる会話を聞く事が出来ない僕にとって、それはとてつもなく急で、驚く程意外な展開に思われた。

僕はそれを見てしまった瞬間、これでもかという程に動揺して、読みかけの本を置き去りにしたまま慌てて円筒校舎を後にする事となってしまった。

兄弟のこんな場面なんて覗き見するものじゃなかった。

説明し難い罪悪感でドギマギしていた僕は、

その日、夕食卓越しの兄と目を合わせる事が出来ず、俯きがちに食事を取る羽目になってしまった。

兄の表情はいつもと変わらず、僕だけが動揺していた。


それも翌日になるとすっかり落ち着いて、僕は春休み最後の図書館通いをする事にした。

気付けば次の日に入学式を控えていたのだった。

この日読んでいたのは確か「日の名残り」だったと思う。気が気では無かったのだろう、定かではない。

この日もいつもの時間がやって来て、兄があの空き教室に現れた。

僕はもうあのふたりを見てはいけないという気持ちと、やっぱり見たいという気持ちの間で揺れた。

が、それは杞憂に終わってしまった。

その日、兄のいる教室に女生徒は現れなかったのだ。

待ちぼうけたまま夕方になると、兄はゆっくりと帰り支度をし、教室を後にした。

僕もきっと、兄と同じ疑問を抱えて家路についた。

彼女はどうしてこの日、あの教室に来なかったのだろう。

そして翌日、僕は入学式の朝を迎えた。

兄はおめでとうと一言僕に言った。

あの女生徒に向けていたそれとは違う、兄らしい笑顔だった。


そして、突然その日はやって来た。

兄が突然部屋に篭るようになってしまったのは、この日からだった。

兄は始業式から帰るなり始まった新学期を数日休んだ。

乾いた声で風邪だと返事をする兄の声は酷く憔悴しているようだった。

ようやく部屋から出てきた兄は茫然としていて、疲れ切っているように見えた。

あの女生徒と上手くいかなかったのだろうか、僕は単純にもそう考えた。

兄は僕が思っているよりも繊細なのかもしれない。

僕はそんな兄に、明日一緒に登校しようと声をかけた。

兄は静かに、そうだねと答えた。

そうして兄はまた学校へ通い、僕と登校したその日のうちに、バスケ部へ退部届けを提出したのだった。

兄はそうして全く笑わなくなって、元々少なかった口数は更に減った。

態度や話し方はいつもと変わらないように見えても、視線はいつも遠くにあった。

だから、あの声が周囲から降り掛かってきた時、僕はあの女生徒を探さなければならないと思った。

「どうして君の兄はバスケを辞めたのか?」

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