空メールは語らない
どれくらい寝たのかわからない。
朝が来て昼が来て夜が来て。そこに母親がいて、看護婦がいて時々父親が来て、それだけの繰り返しだった気がする。点滴に悪いものは入っていないと知ってはいたものの、曖昧になっていく時間経過を知る機能と思考力が徐々にそぎ落とされているようにしか感じなかった。腹にまかれた包帯が取れた時なんかはすでに今何時で何を考えられるかなんてわからなくなっていた。きっとあのぽたぽたと投与された薬に問題があったのだ、と妄想も大概にしろと医者に怒られるようなレベルまで判断力は落ちていた。
たった四日しかたっていないなんて、嘘だろう、なんて。ね。
「はやく退院できてよかったね」
女の声。あぁ、母親だと認識するのに三秒もかかった。自宅まで運ばれる車の中で、ぼんやりと日常を思い出していた。
「あぁ、わりと早く退院できたんだな」
会話文だろうか。ちゃんと人と会話できているようになっているだろうか。テストとして母親に語りかけると「そうだね」なんて返ってくるからちゃんと言葉にはなったようだ。
少し会話というものにブランクを覚えた。おかしい。看護婦や医者とはきちんと話せていた気はしていたのに。自宅についたころには会話のブランクなんてどうでもよくなっていた。今までだって日本語できちんと話すことができたんだ。少しぐらい話さないときがあったって、日常的に使っていた言葉なんだから忘れるわけがない。むしろなぜ自分の言葉に自信がなくなっているのだろう。そっちの方がはるかに疑問で意味不明な内容だ。
久々のような気がする自室に戻るとむわっとした腐敗臭がした。そう言えばゴミ箱に吐きだした朝食がまだあった。あれから誰もこの部屋に入っていないということを証明している。……この部屋だけ時が止まっていたような気がしたが、どうあがいても物が腐っているんだ、止まっているわけではなく着実に現実の時を刻んでいることを認識して、まだ自分の感覚が死んでいないことをやっと認識できた。
「おそすぎやしませんか、俺」
部屋の窓を開け換気して、止まりかけた部屋へ時間を入れる。酸っぱい腐った空気を部屋から追い出して、やけに広い空に解き放った。
入れ替わった冷たい風と床に頭がやっとのおもいでついてくる。深く息を吐いてズキリと刺されたところが痛んだ。問題ない痛みだと脳が判断したので、まずゴミ箱の処理から手順通りに俺が思う「普通」という行動を取る。順調に事が運び可燃なのか不燃なのかわからない腐った朝食のゴミ袋を台所の大きなゴミ袋に入れた。自室に戻るころにはすっかり腐臭は消え現実のひとつを運び込んできた窓を閉じる。
コンコンとドアをノックする音。
叩かれた扉だけではなくその音は床や空気や鼓膜を震わせ「来客」を伝える。ドアを開けると母親が入院中、開けることのなかった鞄を届けに来たのだ。
「忘れものよ」
「ありがとう」
はたして自分はどこに鞄を忘れていたのかとくに意味を成さない質問が浮かんだが、聞く意味もないと冴えた頭はきちんとお礼の言葉を言う事ができた。よくできました、なんて。自分で自分をほめてみた。
ガチャン、と音をたてて閉じられたドアは千成が消えた時と変わらない音で反射的に目元が不愉快にヒクついた。どこか神経質になりすぎだと感じる。
渡された鞄の中からバッテリーの切れた携帯電話を出す。充電コードに挿して赤いランプがチカチカッと点滅してから青いランプが点灯した。パカリと開いて電源を付けるとメールが数件来ていた。中には迷惑メールの広告が紛れていたがよく千成とつるんで遊んでいる笹山や八木から心配していると思われる文脈の文字が並んでいた。退院したこととあと二、三日したら学校に行くことを返信した。そして一番新しい着信は無題のメール。本文は書いていない。空メールだった。送り主を見ると三木千成とは書いているが、こんな電子メールじゃ千成か世喜か区別がつかない。
ため息をついてカチリと携帯電話を閉じた。そのままベッドに倒れ込むと、疲れ気味の体は睡魔をゆっくりと受け入れた。
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