チェンジ、あるいは別のものに変える
けれどあと少しで手が届かずに、痛い朝の日差しが目に突き刺さる。オレンジ色の面影もない空が視界に入ると、現実が脳と体にのしかかってきた。
いったい、夢は頭のどこで見るものなのだろう。眼にはしょっぱい水が溜まっていた。
「遠く、か」
日差しがぱらぱらと音を立てて蛍光灯の明かりと共に降り注いでくるから、つい目を閉じてしまった。真っ赤な視界はあぁ、自分にもちゃんと血が流れていることを再確認させるようですこし気分が悪くなった。手で涙を拭って、起き上がる。腰をずらしベッド柵の壁にもたれかかる、寝すぎて頭がぼんやりした。
さっきの夢はなんだったのだろうか。
見たくない現実と得たい幻想が混じった「理想」だったのだろうか。理想にしては千成は俺に何を求めたいたのかさっぱりわからなかった。それは俺が千成に向かって考えていたことなのか、否か。
自分の頭の奥底のシグナルだろうが、俺は千成とどこに行きたかったのだろう。ため息を深く吐いて、今日という日を受け入れるための心を準備した。せめて昨日よりも傷がつかない精神状態にならないと、こっちまで気が滅入りそうだったからだ。
「やぁ、品川」
部屋に誰かいることに気が付かなかった。視界の端を確認して、そこに世喜が立っていた。
「世喜」
「おはよう、にしてはすこし時間が経っているけどね」
複雑そうに笑う、その顔はどう見ても千成そのものだった。世喜に抱けた違和感がなかった。たった一日でどこが変わったのかわからなかったが、幸薄そうな表情と暗闇を連れてきた瞳に不自然なところはない。むしろそれが当たり前かのような印象さえ抱けた。
「世喜?」
「どうしてそこが疑問系なんだい」
疲れた無表情に冷たい声色。よく聞く声に酷似している。いや、似ていて当たり前なのだろう。けれど、瓜二つすぎていた。
世喜は空いた見舞い椅子に座った。崩れるように座るその姿はことの異常さが垣間見える。
「おい」
疑問符を上げるその顔は何の違和感も感じない。無理やり理由を付けるように自分が嫌になったが、自然すぎて、不自然にも思えた。
「なに」
「大丈夫か」
「うん」
ぽつぽつと続けられる会話は光が沈殿する病室にこぼれていった。
「伝えてほしいって頼まれたんだ。千成に」
伏し目でぽろっと聞きなれた名前を吐いた。世喜は一度目を閉じてから、息を深く吸っていた。
「ごめんなさい、だって。あいつが謝るのは珍しいよ」
言った後、眉を眇めて腹のあたりと肩を押さえていた。それからしばらく黙っていると無気力気に笑い出した。
「世喜、お前」
「言うな。確認なんていらないだろう」
眠気にさいなまれているような重そうなまぶたは痛みを感じるたびに震えているのが分かった。
千成と世喜は今、立場を交換していると話した。そのままの通り、すべて逆転したんだろう。名前や雰囲気だけではなく、傷つける方も傷つけられる方も、何もかも鏡のように変えてしまったのだろう。表面上の嘘だけでは飽き足らず、細部に至っても完璧にお互いの仮面を塗りたくってしまっていた。完璧としか言いようのない演技と舞台。詳細さえ知らなければ、私生活で気が付く人なんていないだろう。
「世喜の世。これで今は痛み分けさ。千成も加減は知っている。今までずっとそうしてきたからね」
世喜が静かに吐き出した。重々しい言葉の綾が見えた気がした。
「いいのかお前らはこのままの関係で」
「たぶん、良くはない。けれどずっとこの関係を続けてきた。いまさらどうこうできる気がしないし、」
苦いものでもかじったかのようなしかめた顔は苦しそうで辛そうで、でもそこに涙はなかった。
「品川。もうどっちが千成で、どっちが世喜か、わからないんだ」
乾いた目玉が二つ細く遠くを見つめるために絞られて、小刻みに震えていた。
「……少なくても、お前は世喜だよ」
思考するよりはやく言葉のほうが出てしまった。埃が乱反射してきらきらと舞い始める。「世喜」という自分の名前を耳にしてから、世喜は弱めに「ははは」と笑って椅子から立ちあがった。病室を出るその後ろ姿はやはり千成にしか見えなかった。
静かになった病室には冷たい空気がふんわりと戻り始めていた。だれか世界の端っこの空気でも持ってきたかのような冷たさが肺に入り、そのまま停滞してしまった。ふと体が訴えた空腹に、朝ご飯を食べそこなっていたことを思い出した。今、何時なのか正確な時間はわからないまま、真ん中より傾いた日差しをぼんやりと見つめた。
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