非日常は夢の隣


 目が冴えた。


 母親がわざとらしく喜んだ。いや、わざとじゃないんだろうけど、俺には誠意あるように映らなかったしあまり関係ない事なので途中で考えることを放棄した。これで投げ出せるような気がしていたが、医者が来て、警察が来て、父親が来て、めまぐるしくこの小さい部屋に入れ代わり立ち代わり人が出入りするもんで自分をいかに「普通」をたもっていられるかということにせいを出すことになってしまった。

 医者から言われた「さほど傷は深くない」に安堵したふりをして、世喜に言われたように通り魔の「設定」を一字一句間違えずに話すと警察は何度か恐持ての顔を上下にふる姿を見届け、父親に「心配かけて、ごめんなさい」と砂粒ほど思っていない謝罪文を述べてるとあっという間に日は沈み消灯の時間になっていた。

 今日見た顔をひとつひとつ思い出そうとするが、興味がないことほど人間は記憶に刻むことができないみたいだ。クラスメイトから聞いたくだらない諸説に高校生からはだんだんと暗記系の記憶は出来なくなり小難しい理由を付けた記憶しか残らないらしい。言い訳のようにぼんやりと頭に浮かんだ。


「うそつき」


 暗い病室にぽろりと零れて霧散した言葉。

 千成も世喜も嫌いな言葉。それは自分たちの正体だからだろう。……そして俺も、今日の一件で二人に加担した嘘つきという称号をもらったことになる。不本意ながら自然と口角が上に傾いた。



 暗闇に身を投じるといつの間にか教室の真ん中に立っていた。これが夢であると気が付くのにさほど時間がかからなかった。夢の癖にやけに現実味があって逃げしたい気にもなった。しかしあくまで夢であると自分に言い聞かせて明晰夢を楽しむのも悪くはない、なんて大口叩いて学校生活に至る「普通」を想像してみる。けれどなかなかうまくいくものではない。教室には夕焼けの日差しが差し込むだけで特に変化はないし、夕暮れ時のいっそう寂しい風景を描き出していた。


「なんだよ、夢の癖に」


 吐き捨てると背中にひとひとり分の重さをズシリと感じた。すぐに首に回る両腕に自校の制服を思い出した。どうやらのしかかる後ろの人は俺よりも身長が低い人間なのだろう。足元を見ると少し背伸びをしているのが見える。


「ちょっと重たいんだけど、」


 答えはない。

 俺はひとつため息を吐いた。

 さっきからなにか吐いてばっかりだ。

なんとなく、ではあったがやはり思考よりも初めに口走るのは我が性分。後ろにいる人間をいつの間にか「千成」と呼びかけていた。


「……帰ろう」


 教室に弱々しく響く言葉は、帰りへ誘う言葉。するりと手はほどかれ、振り向くとどこかやつれた千成が立っていた。艶めかしい肌は夕闇のオレンジに照らされ健康的に見える。だがそんなのはまやかしで現実は酷く青白く死にそうな顔をしていて、でも他人にはそういう弱さをまるまる隠した仮面をかぶって生きる嘘つきだった。

 俺はオレンジを乱反射する千成の冷たい目に触れたいと思った。

 ここが夢なら俺の思ったことをやっても罪にはならない。別に千成に露呈するわけでもない。ならば、と思ったが結局は思っただけでとどめてしまう。それが本音だったのか抑えだったのか、自分に聞く前に俺は千成に背を向けていた。


「帰ろう」


 かつん、と足音が教室に響く。響いた音は教室を舞って壁に反射されて机やいすに吸収されて消えた。二人分の足跡が教室から消えた時、空は夕闇から本格的な闇に色変えをしていた。


 長い長い廊下と階段。千成の少し後ろをついて歩いて行ていたが、どれほど歩いても昇降口にたどり着かなかった。


「なぁ、」


 俺は前を歩く千成の肩に手をかけた。ぴたりと止まって冷ややかな上目使いで「なぁに」と返事を返す。これは俺の千成に抱いてるイメージなのか。どこか違うことも並行で考えながら俺はぽつぽつと言葉を編んだ。


「帰るってどこに帰るんだよ」

「家だろ?」


 こんなに歩いていても何も疑問に思わないのは夢の中の住人だからだろうか。


「いや、そうだけど」

「じゃあ、なに。真也はなにか別のところに行きたいの?」


 思ってもない言葉が返ってきた。それだけではない、その言葉を吐いたその口に笑みがこぼれていた。どこか悲しげな眼に夕闇のオレンジ。廊下の窓から突き刺さる暖色の光が温かさより悲しさを作っていた。まるでこの光景は現実での出来事で見たことがあるかのように鮮明で、でも遥か昔それこそジュラ紀より前のデボン紀のように生まれる前の知るわけのない時代の記憶のように形が崩れていた。

 ぼかしのかかった感覚にこれはどんな感情なのか思い出そうとする。けれど思い出すことなんてできるわけがなく、脳髄が沸騰でもしているかのような憤怒に近い感情が腹の底で茹だっていた。


「俺は行きたいな、どっか遠くに」


 千成の声が空気を震わせた。空気という液状の気体が水面を描く。千成の顔が紙に滲むように輪郭を失う。なぜ? どこか怪我したわけでもなく悲しいわけでもない。けれど頬には熱を持った液体が伝う。


「ちっ……、」


 どこかに消えてなくなってしまいそうな千成に手を伸ばそうとした。

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