病院の天井
経験して初めて分かった事がひとつある。人間は案外頑丈に作られているということだ。
目が覚めた時は少し驚いたが、死んだような気はしていなかったのであぁ、なるほどと理解した。白を基調とした空間と、やたら消毒液の香りが立ち込めるこの場所は病院だった。そう。腹を刺されて気を失っている間に病院に連れてこられたのだ。それからベッド脇に眠る母親が目に入った。体が強張り血の気が引く感覚を腹の奥底で感じる。生身の女が横で呼吸をしていることに「普通」であると頭に教え込ませて、深く息を吐いた。
すやすやと寝息をたてる母親から目をそらし目を閉じた。
「しながわ」
暗闇の中で誰かが呼んだ。
「しながわしんや。……おい、目を覚ませ」
落ちかけた意識を掬い上げ目を開いた。眼球に突き刺さるような痛みを光と認識すると、よく見慣れた顔があった。
「ち、」
違う。
見慣れてなんかいない。
視界に入ったその顔は確かに見慣れた顔だった。しかし、中身が違った。よく似た姿と違う中身。弟の世喜だった。
「なんでお前が、」
入院服の俺とは違い私服であった。そのかわり刺された肩側のティシャツの隙間から包帯を覗かせていた。
「通り魔」
聞きなれない単語を耳にする。思わず「は?」と聞き返すとよこの母親に目くばせをした。まだ眠りに落ちていることを確認すると一つトーンを落とした声でぼろぼろと語り始める。
「俺は千成で、通り魔に俺と品川が刺されことにして欲しい。警察が来て事情聴取されたら適当にあしらって欲しい。その間のキーワードは黒服、高身長、カッターナイフと覆面ね。俺はこれで通した。あとはあの建設予定地じゃなくてその前の路地ということにして欲しい」
「なんで、」
「察しが悪いね。寝起きだから? まぁ、いい。いま千成は俺になっている「設定」にしてある。このことが露呈するのは困るんだ。日頃行っていた暴力。千成の殺傷事件。なぜあの場所にいたか。問われる責任と罪状は隠さなければならない。わかるだろ」
どこか嫌そうに語る世喜を見て、千成とは違う人間なのだと理解した。そのしぐさと話方。熱の塊のような目と言葉に親身になれる気はしなかった。
「千成が捕まるのは俺にとってよくないことだ。だから架空の犯人を作っただけだ。幸い、入れ替わったことに誰も気が付かない。これでよかったんだよ」
嘘つき。なぜこの兄弟が嘘を嫌うのかなんとなくわかった。二人の関係が誰にもわからないように、お互いの真実を曲げて隠して嘘で塗り固めていたのだろう。だから自分の嘘が覆されないためにも人の嘘を嫌う。そうやって自分たちを守ってきた。吐きなれた嘘の端くれを目の当たりにして、よくわかった。この二人は存在自体が嘘なのだ。
「わかった」
めんどくさそうに映ったのだろうか。ため息を一つ吐かれて「たのむよ」と全然モノを頼んでいるようなしぐさで頼まれた。
「じゃあね、品川」
病室から出ていく世喜を見送り頭の中で整理した。次に目を覚ます時は警察とか、ハードル高すぎだろ。初めてなんだぜ、なんて建前上のセリフをぽつりぽつりと考えて目を閉じた。
今、千成は何しているんだろう。死んでなきゃいいけど。
縁起でもないことがぽつりと浮かんで消えた。情報を詰め込んだ頭にはすんなり、眠りを受け入れることができた。再び深い眠りに落ちる。
夢の中で誰かが呼んだんだ。誰かが誰かの名前を呼んでいて、頭の奥のどこかで誰かが誰かの名前を呼んでる。
それから痛み。途方もない苦痛が続くような感覚に身を支配される。
頭の奥が痛い。体が痛い。腹が痛い。イタイ。いたい。
「誰の、遺体?」
あぁ、その声は千成か。
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