ぶちまけた紅茶色

 胃が空になってすぅーと血が引いたのか、鏡の前に立つ顔はこの上ないほど真っ白だった。むしろ自分の死体のような顔に、吐き気さえわいてくる。洗面台にざらざらと水が零れる。それをすくって乱暴に顔に叩きつける。髪の毛まで侵食する水にうっとおしいと思った。

 だっだっだっと誰かの軽快な足音に、がちゃんと我が家の玄関のしまる音を聞いた。冷たくなった頭は把握するのに時間は要さない。千成がここから立ち去ったのだ。行くところがないと、次に世喜にあったら殺されるかもしれないと、そう言っていた。この先のことを考える前に、自分は走り出していた。肩で息をしながらちぐはぐの靴の踵を追って、丁字路まで走っていた。すでに消えた千成の背を追いかけていた。途方に消えた悪い憶測が頭を埋めると、ぶつけようもない怒りがこみ上げる。


「くそっ」


 地面を踏みつけたが、それで解消されるはずなんてあるわけがない。怒りの感情と隣り合わせにずっしりと濡れた髪の毛がまとわりついて、より一層不快感だけをあおるのだ。


「千成の家すら俺はしらねぇのに、どうやったら探せるんだよ」


 水滴を振り払うように頭を振って、一度自室に戻ることにした。今日は休日。急いで出掛ける用意をして千成を探す。完全に俺が悪いのはわかっていた。

 無駄に透き通った飴色の風がふんわりと耳元をかすめるが、その風もペンキを零した青色も鈍色の雲も今は全部、苛立ちと不快感へと変換してしまう。それから空なんて見上げないまま自室ると千成へ貸した服は綺麗に折りたたんであった。それから制服と荷物もきれいさっぱり消えている。引きつった頬が一度痙攣した。衝動で畳んだ服をベッドに投げつけ苛立ちながら着替え、必要最低限の荷物を鞄に突っ込んで街へ駆けた。探す以外に俺に何ができよう。



 携帯電話を鳴らしても現在電源が入っていないという絶望的なセリフが耳に付く。千成とつるむ連中から俺があまり話したことないクラスメイトへ当たり障りのない文章の中に千成の行方を探る文を組み込む。それから何も考えず当てもなく走り続けていたら夕方になっていた。

 執着心と絶望。それから一切れの期待で駆けずり回って、結局手掛かりは何も得られなかった。携帯電話のバッテリーも三パーセントを切りいつの間にか電源が落ちていた。

 真っ赤な茜の空に、気早なが街灯は明かりが灯る。いつの間にか通学路付近をうろうろしていた。よく道草をくった自動販売機の前に立ち、自分ではどうすることもできない苛立ちにガンッと鈍い金属音を鳴らして蹴った。鉄の四角い塊はびくともせず、その代わりにがらんっとココアの缶を落とした。吐き気がするほど走った後にこんなあまだるいモノが飲めるわけもなく、睨みつけて舌打ちをする。


「何に怒っているんだ」


 不意に聞こえた千成の声に振り返る。三歩ほど離れた位置に探していた人物がいた。驚いた反射で名前を呼びかけたが違和感だけが喉の奥につまり言うことができなかった。まるで感情の無い鏡のような目玉で俺を見つめる。その瞳から連想させる人は千成ではなく最悪と語られた弟の世喜だった。


「べつに」


 睨むようにその目を見返すが、本当に鏡を見ているかのように自分で自分の怒り狂ったさまが想像できしまう。


「あててあげるよ。千成は家には帰ってきていない」

「聞いていない」

「教えてほしそうな顔をしていた」


 人形のように表情ひとつ変えない。前にあった時のような狂気さも感じられない。ただそこにあるのは感情を抱えた半身が逃げてしまってそれを探しているかのような不安定さが漂っていた。


「ねぇ、千成はどこに行ったの?」

「しらねぇよ」

「嘘つきは死ねよ」

「あいにく、嘘を吐く余裕はない」


 本当の言葉を吐き続けた。けれど片割れは信じようとしない。世喜にとっての本当は自分の目で見たことしか信じないのだろうか。現に今、たった数秒で俺を自動販売機に押し付けて右の目にその暴力を加えなれた手によってえぐられかけていた。


「嘘つきは嫌いだ」


 そう言って中指と薬指を眼球が収まる骨のくぼみに力を加える。残念ながら生きている俺には眼圧があってなかなか取れるものではない。


「嘘は吐いていない」

「それが嘘だろう?」


 会話にもならない。かみ合わない。拉致があかない。意味が分からない。それっぽいニュアンスの言葉がぼろぼろと浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返した。どうしてこの兄弟はこんなにも嘘を嫌うのだろうか。そっちの方が気になってき始めた。


「じゃあ、そう思うならそれでいいよ。誰も信じられないからお前は独りなんだな」


 思考よりはやく思ったことを話す口。今回は火に油だろうか。それで右目が失明したらすこし不便だと不愉快になった。


「独りはお前だろう。品川真也」

「あぁ、俺は独りだよ。だけど信じることはできる」


 言葉を言い終えてすぐに、世喜は俺の右目から手を放した。それから世喜は怖がるように一歩後ずさり顔をそむける。少しそれた顔は千成と見分けがつかないほど弱弱しくなんの感情も抱かせないように振る舞うようだった。無感性、いや何かを感じることはできている。無感情を装った仮面。夕日のせいで紅茶色に染まる世界で、肺呼吸の癖に息苦しく生きていることがわかる。その光景は昔感じていたどうしようもなく湧いてくる残酷心を纏った闇から逃げる自分と重なった。制御することが難しく崩落と制御が紙一重で、いつかこの均衡が崩れてしまうのではないかと夜中布団の中で怯える様子に似ていたのだ。それも一種の孤独でだれからも理解されない心理的な孤独なのだろう。


「あんたの言うとおり、どう頑張っても俺は独りだ」


 ぶつぶつと低い声が茜に溶ける。溶けて消えてもう二度と形を作ることは無い。理解しているから全てが溶ける前に耳に入れた。


「なぜ千成をあんなふうにする」


 茜が濃紺に変わる前。気になっていることをぶつけてみた。すると鏡だったひとみが急に自分の色を持ち、ぎらりと鈍色に光った。


「俺だけ悪者なの?」


 睨みつけられた視線に悪意があった。やっと人らしい感情が見られた気がした。悪意。人に一番抱かせやすい感情だ。


「悪者だとは言っていない。俺が言っていない言葉をお前の口から出るということは、自分でもわかっていんじゃねぇの」


 正論を言ったつもりだった。しかし、言った後に誰にとって正しい事なのかまでは考えなていなかった。俺にとっての正しいことなのか世喜にとっての正しい事なのか、それよりいったい誰が正しいと決めるのだろうか。そこらへんはなにも考えていなかった。だからこの後どんな言葉が返ってくるかわからなかった。そのせいで言った言葉も誰にとっての悪で誰に必要な正かも不明だった。俺にとっての悪者なのか、千成にとっての悪者なのか、この質問ではわからない。ずいぶん甘い切り返しだと嘆きかけた。


「千成が悪いんだ。あいつがおんなじ遺伝子なんだから俺でもお前でもおんなじじゃないか、なんて言うから」


 殺意だろうか。誰に対しての?


 俺は一つの疑問符を口に含んで飲み込んだ。言ってしまったらその殺意は俺に向けられる良ような気がしたからだ。

 茜色が世界を置き去りにする。深い夕闇が茜を追いかける。朱色に取り残された双子の片割れと執着心の肉塊はこれからどうなるかを知らない。知らないならば知らなきゃならない。知るためには行動を起こさなければならない。数々の「なさねばならん」ことが頭に浮かぶが、全部、机の上で考える空想と等しいくらい意味をなさなかった。


「探すんだろ、千成のこと」


 恨みを背中に抱えた世喜に尋ねると低い声で「あたりまえじゃん」と答える。その獣のように息を吐く声に少しだけ「恐ろしい」という感情を抱く。強い感情を置き去りにしてただ不安定な現状維持に努めた千成とは対照的である一つの感情に捕らわれた世喜は、言った通り遺伝子は同じだろうがそれぞれ別の生き物だと思う。それは思っただけで事実かどうかは彼ら二人の心の奥底を見なければわからないことだとも同時に思った。結局、俺には計り知れない心の距離と関係性が成り立っていることだけは緩やかに崩れた思考でも理解した。


 しばらく立ち止まって肺が通常運転し始めたころ、世喜が思い当たる節に向かうと言い出した。

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