吐き気と胃酸の味
タイミングを見計らい、そそくさと自室に戻る。はっきり言って辛かった。自分ではちゃんと理解しているつもりでも、途中で母親が変わるということは以外にも精神的にくることが分かった。阿呆な面さらして朝飯なんて食えるはずがないと思っていた。胃に収まった食卓にいまさら吐き気が起きるが、吐くのも体力いるしなにより吐いて何にもなるわけじゃないから、必死にこらえる。
「真也」
千成の声に一瞬だけ身構えた。
「なに」
「すげー顔色悪い」
「……苦手なんだよ」
千成は複雑な顔をする。同情だろうか悲しいのかそんな感情を一気に混ぜたような顔をする。
「なんでお前がそんな顔するかわからない」
顔をそらし表情を悟られまいとする。それが千成のプライドなのかなんなのかわからなかった。だけど俺は疲れ気味にだけど笑うことができた。千成は言葉を選んでいた。そして遠慮気味に俺に言う。
「いい人そうじゃん」
「いい人だと思うよ、たぶん」
「じゃあなんで」
いい人、なんて無駄に洗練された言葉は今の俺には余計に疲れさせた。
「少なくとも、この家に居場所は無いんだ」
居場所は無い、その言葉に千世は眉間を少しだけ歪ませたのがわかった。拍車をかけるつもりはなかったが、どうしても余計な言葉が口からこぼれる。
「父親は仕事の関係で俺には一切関わらないし、母親はアカの他人。これ以上の孤独はないだろ。……ほら、笑えよ」
前に千世が言ったように言葉を吐く。千世は押し黙ってしまった。
苦笑気味に目を細めていたら視線が交わった。千世の目には「哀れ」の言葉がふさわしい色をしていた。そんな目で見るなよ、そんな目で。言うつもりだったけど、理性が暴言じみた言葉を吐く事を止めた。
「悲劇の主人公気取りしたって、千成が主人公の物語なんて千成の人生だけなんだからな」
自分自身の感情を感じ取る器官がきちんと正常に動いていないのだろう。じゃなきゃこんな風に告げるつもりはなかった。
重くねっとりとした空気だけが肺を埋める。胃にたまった朝食がせりあがってくる。口には苦い酸の味。口内まで溶けてしまいそうだった。視界が歪む。眼球は劣化しているわけでもないはずだ。視力はいいはずなのに、理由がわからず目の前が曇る。
一瞬だけ目線を千成からはなした。その一瞬を千成は見逃してくれない。左手を急につかまれてひやりとした感覚が服を通り抜けて感じた。そこは壁ではなくたぶん姿見に押し付けられたのだろう。
「……別に、そんな風に気取っていない」
あと二センチ。あと二センチだけ千成との距離が遠かったら払いのけただろうに。すりガラスのように心の奥が見えない瞳に、近すぎて魅了されていた。
「悪かったよ」
俺は吐き捨てるように言う。千成は黙る。とらえられ上げられた左腕が、千成の体温と鏡の温度と混然する。
その混ざり合った温度に逃げることができなかった。
「本当に、悪いと思っている奴はそんな目をしねぇよ」
ぼそりと言葉を投げつけるように言うから、俺は視線を逸らそうと思う。しかし、思うだけで行動には移せなかった。距離が近いということはこんなにも行動に影響が出るものだと初めて知った。
胃酸で溶けかけた朝食だったものがとうとう食道まで這い上がっているかのようで、右頬が引きつる。千成は頑として冷めた視線を俺に向けるから、床が沈めばいいのにと訳のわからないことを思うようになっていた。床が歪んで沈んだら、真っ暗で何もない世界に身を投じられると思った。
思考だけがやや現実から離れたとき、千成はため息を吐いて手を放した。やけに生暖かい吐息に千成は人間なんだなぁとごく当たり前、それも少し狂った感想を抱いた。その感想が、俺にとってどんなものなのかは認めたくはなかった。
「真也は、最低だ」
最低じゃない人間なんていないよ、と言おうと思った。だけど自然と口からこぼれたのは「そうだな」という肯定だった。意外な答えだったのだろうか、千成の瞳孔が一瞬だけ開いたように見えた。
こんな近距離で最低といわれてそれを平気で認めて、どうして平常でいられるのだろうか。伏し目で自分の足がきちんとあるかを確認するような気分だった。
「最低と言って、そうだと答えるところは世喜とよく似ている」
千成はやり場を失った手を左胸に押し当てながら言った。逸らされた視線の向こうには、どんよりとした青色のような暗さを宿していた。どう行動したらこれ以上嫌われずに済むだろうか、と目先のことを考えているうちに両手は千成を捉えて足は崩れる。床に座り込むと、やはり床が沈んでしまえばいいのにと再度脳裏を過る。抱きかかえた千成は温かい。あぁ、やっぱり人間なんだな。なんて。
「馬鹿だよな、」
腕の中に納まる千成が呟く。
「だれが」
「俺が」
「馬鹿は千成じゃないさ。馬鹿は自分を馬鹿だと認識できないよ」
正確に言うと、馬鹿はいちいち立ち止まったりしない。だけど、立ち止まるという言葉を告げたら千成は全力で否定か俺のことを軽蔑するだろう。そんなリスクを負うようなことを言う勇気は今のところ持ち合わせていない。うつむいた顔を覗くと、酷く重い表情だった。俺なんかよりも気分が悪そうで、今にもぶっ倒れるような血色だった。
「てっきり、泣いてるかと思った」
「死ねよ」
はんって笑ってやればよかった。いや、そうやって鼻で笑うつもりだった。だけど、無理だった。
「お望みなら、死んでやるさ」
「嘘つき」
最大の本音を千成は嘘つきの一言で打ち消す。そんなことないと、反論する気にもなれず息が止まるような苦しみをため息に詰め込んで吐いた。ため息だけではなく、朝食までおう吐しかけて口元に手をかける。そのまま抑え込むことができたらよかったが、どうやら無理そうだ。千成にかけていた手を放し、すぐ近くにあったごみ箱にすべて吐き出した。自分の嘔吐く声がプラスチックのごみ箱に反響する。酸味のある香りに、消化されない食べ物だったものが溜まる。
「おい、真也」
あぁ、かっこ悪い。
その一言だけしかもう浮かばない。あとはずっと無駄に出た胃酸がだらだらと唾液とともに沈殿する。口の中はどろどろでとてもじゃないがしゃべれる状態じゃなかった。知らず知らずのうちに涙が零れる。それすら汚いものに思えた。ごみ箱に頭を突っ込んだまま千成の俺を呼んでいる声が聞こえる。その声をかき消すように耳鳴りが頭の奥の方に届く。耳鳴りのせいで頭の中は千成の声より自分の壊れる音に支配されていた。
「真也、真也、しんや」
だんだんと声が大きく聞こえる。誰の声だったか、忘れそうだった。
「……だいじょうぶだから」
「嘘言うなよ」
腐りかけた内臓まで出るかと思った。ごみ箱から顔を上げて、千成に視線を向ける。俺と心配を写すその瞳は、生理食塩水のせいでぼやけて見える。すぐに袖で拭ってへろへろの足腰に鞭を打って立ち上がった。
「ちょっと顔洗ってくるわ」
もう千成を見る気にもなれなかった。一刻も早く頭から何から冷水に沈めて、意識を覚醒したくてしょうがない。吐き気はすとんと止んだが、胃酸が原因の胸焼けを起こしている。
「俺もつきそ、」
「くるな!」
感情を表に出して怒鳴り散らしたのは慣れない。加減も感情も全部手から滑り落ちるから、俺には難しい。怖くて当の本人は見ることができなかったが千成の強張る姿が浮かぶ。いかに自分が弱い存在なのだと自覚するのが一番嫌いな行動だ。
「……大丈夫、だから来なくていい」
柔らかい言葉に置き換えて同じ内容のセリフを口からこぼす。弱めに吐かれた息とともに出た言葉にはなんの効力も持たない。知っていながら、前へ歩き出すしかなかった。しかし今の自分は階段を下りるという後退的な前進だったけど。
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