薄らいだ希望
その日の深夜に電話の着信音が鳴り響いた。相手は千成だった。
眠気を圧し殺した声で「なに」と問うと事切れそうな声色で俺の名前と助けてを繰り返す。夕方の言動から事態を想像することは容易いことだった。
「大丈夫か、千成」
言い終わる前に電話は切れた。
静寂の中で無情にも切れた電話の音に、どうしょうもない不安と、取り留めもなく溢れる汗に拳を壁に打ち付けることしかできなかった。
眠れない夜が開け、朝飯を食べずに登校した。やっと頭が冴えてきた頃、教室に千成が来た。右目の上に大きな絆創膏をはり、人に尋ねられると「階段でこけちゃって」なんて答えていた。本当はこけたんじゃないだろうとわかったが、まさか人が居るなかそんなことは言えず、黙っていた。
放課後に千成から資料室に呼ばれ、やっと二人っきりになれた。
資料室の古い紙の匂いに眠気を誘われながら、窓側に立つ千成を見つめる。逆光になっているせいか、なんだか違和感が喉の奥につっかえていた。
「夜遅く、悪かった。忘れてくれ」
いつもの無表情で吐き捨てる千成に、妙な違和感は形を持ち始めた。感情を置き去りにした冷酷なその表情。だけど、なんで、――。
「……あんた、誰だ」
「千成だよ」
「違う」
「なんでわかった」
「感覚さ」
「ふぅーん」
千成じゃない。朝、少なくとも昼休みまでは確信を持って千成だと思う。だけど、今、目の前にいるのは違う人間だ。
「いつすり替わった」
「さっき」
「千成は」
勘にさわる笑い。弟の世喜だと気がつくのに時間はかからなかった。
「そう怒んなって。あっちのロッカーにガムテープでぐるぐる巻きにしたから、早くした方がいいかもね」
自然と舌打ちがこぼれる。即座に人一人位入れるロッカーのドアをこじ開けた。
千成と目が合い、なにも言えなくなった。安心を見つけたかの様な顔をして俺を見つめる。すぐにロッカーから千成を引きずり出し、すり替えられた制服の上に貼られたガムテープを剥いだ。今朝、絆創膏がはってあった場所には「千」の文字が刃物傷で刻まれていた。最後に口に貼られたガムテープを剥がすと、千成は眉間を歪ませ「ありがとう」と一言、俺に告げる。
はっとして、後ろを振り返ると世喜は姿を消していた。
何度か千成の深呼吸の音に支配された耳は俺の脳髄に致命的な傷を残した。それは千成への興味と、千成が欲しいと言う欲求だった。最低限の思考しか動かさないという反射的におきた自制のおかげで酷く冷静になれた。
「真也」
掠れた声に事の重大さが感じられる。自分の最低さを自覚して、浅ましさに悔いていた。
「なに」
何も言わず千成に手を伸ばす。千成を捕まえ抱き締める。千成の温かさに、肺が苦しくなった。
「……嫌って抵抗すれば」
確認するつもりで言ったけど、反して千成は「疲れちゃったよ」と呟いた。
「嘘つき」
「嘘なんか吐いてない」
「本当は俺を試したかったんだろ」
「なにを」
「だから、当たったご褒美なんだろ」
なんて、一パーセントにも満たない可能性をわざと口にしてからかった。
「試したかったのは俺じゃない、世喜だ」
「……そうか」
「ご褒美って言い方はなんか違う」
千成が何を言うのか予測できなかった。だら黙って聞いていると「真也は嫌いだけど、こうされるのは嫌いじゃない」なんて言い出した。両手で抱いている千成の匂いに気が狂いそうだった。鼻腔くすぐる血の香り。それを隠すかの様な淡く香る甘い匂い。
「世喜も、嘘つき。だから嫌いだ」
「……俺も嘘つきらしいが」
「時々、自分に嘘吐いてるだろう」
「それなら、千成もだろ」
押し黙った千成に真理を一つ教えてやった。
「人類皆嘘つきさ」
俺も千成も想像するよりずっと心が脆い。だから千成は要らない感情を切って、俺は無感性を装い生きている。人がいるからこそ、人間らしく振る舞ってるだけで、本心はなにも感じていないのだ。千成は現実の痛感から逃げるため、俺はただの無感性さを隠したいから。
それだけの事。
「首絞められた時、なぜ笑ったか分かる」
「……自分と同じ目をしていたからか」
「あぁ、そうだ」
「千成は、」
「言うな、聞きたくない」
「……」
「俺、世喜に殺されるかもしれない」
ぽつりと語る言葉は現実には起こって欲しくない事柄だった。
「昨日さ約束破ったとかで、ここに千成の千を彫られた。次は心臓に成って彫るんだってさ。安っぽいだろ、笑えよ」
千成は自分の鼓動の原点を押さえつける。虚ろな瞳に希望はなく、絶望よりも汚濁した色をしていた。
「笑えねぇよ、馬鹿」
千成は俺にしがみつく。強く、強く。……俺なんかよりも、ずっと執着心が強いんじゃないか、とでも思いたくなるほど。
「今日はウチに来い。明日は土曜日だ」
なにも考えていない脳みそに、思いつきをぽろりと話す口。責任は取れる度胸は無いが、捨てては置けない。
「いいよ、悪い」
申し訳なさそうに言うから「嫌、じゃないんだ」と笑ってしまった。すると千成は言葉の意味に気が付いたようで、歯を食いしばっていた。
「お願いじゃくて命令だ。ウチに来い」
「分かった」
千成の声は酷くやつれていた。諦めかけているこの目の色は、千成も孤独なのだと分かる。
「真也」
「なに」
「もう少しだけ、このままでいていいか」
「いいよ」
誰かとこうしたことは、生涯初めてだった。だけど千成のすごく近くにいるくせに、なぜかとても虚しかった。いや、虚しいというより、なにも感じなくて苦しかった。俺こそ、千成の弟よりも狂っていて変なのかもしれない。
喉にたまった違和感を、必死に唾液で流そうとした。
なぜか、そうしないと俺まで諦めてしまいそうだったから。
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