冷たい季節
極月の気温が下がり続けて、雪も積もり始めたころ。学生の特権である冬休みに差し掛かった。そして寝つきの悪い寒い季節の到来が原因なのか、酷く深い闇に似た夢を見るようになった。覚めてもずっとはっきり覚えている。苦しく俺にのしかかってくる。
――三木千成を殺す夢。
場所は毎回変わるが、内容は全部一緒。千成を追いかけまわしたのちに、俺がこの自分の手で千成の首を締め付ける。酷くリアルな感覚が手に残る。千成の苦しそうにする素振りに抵抗しようと俺の手首を掴む力。夢の中で俺はどんな事を考えているのだろう? いつもそれだけが思い出せず、あとは生々しい夢の断片が記憶に残る。
気温が下がっている朝明け方は、悪夢のせいで汗が大量に体中を覆っている。それがすごく気持ちが悪かった。
例に倣って今朝も同じような夢でたたき起こされる。携帯電話を開いて時刻を確認した後、弱めに息を吐く。どうしてこんな夢を見るのか? どうして考えても居ない事が夢に出てくるのか? 疑問形にアンサーのが付くわけでもない。自問して、自答は出来なかった。
冬休みが終わり、もうすぐ新学期が始まろうとするとき、学校で千成を見かけた。毎日のように見たあの夢のせいで、とうとう千成の目をきちんと見れなくなってしまった。
目を見て話さなくなってから数日も経っていない。発端は小さいことがらから起きた。キッカケはさもない事。俺が貧血気味で体育の時に倒れたのだ。それで先生が俺と仲の良い友達を勝手に解釈して、保健室に連れて行かれた相手が千成だった。
キッカケなんて、偶然以外のなにものでもない。偶然が重なった結果が悪かったのだ。
この日は保健の先生は出張で居なく、他の先生も忙しかった。だから千成が俺の元についていた。はっきりと目が覚めた直後に認識したのは千成の横顔。ベッドの横の椅子に座り窓のどこか遠くを眺めていた。酷く綺麗な顔で虚空を見つめていたから、俺は眉間に皺をよせてちゃんと見ようと揺れる焦点を合わせる。はっきりと自分でもわからない感情をもてあましながら、千成に手を伸ばした。
「ちせ、」
伸ばした手は千成には届かず、空を掴んで重力に引っ張られた。名前を呼んだせいもあって、俺が起きた事に気が付いてこっちを向いた。千成は首をかしげながら不思議そうに俺を見る。それで俺は寝がえりをうって千成から目線をはなした。
目を瞑ると夢に出てきたあの歪んで苦しそうにする千成の顔が浮かぶ。
苦しくなって小さくうずくまっていると影が落ちた。上から見下すかのような目をした千成が、俺を眺める。――見下すなんて、俺の錯覚だろうか。
「死にそうだね」
ぽつりとつぶやく千成の声は、久しぶりに俺個人を指していた。
俺に向けられて発してもらった言葉が「死にそうだね」って、まるで死んでもらいたいかのように聞こえてしまう。
「そろそろ死にたい」
卑屈に捉えた自分もどうかと思うが、散々殺す夢ばかりを見ていた俺が言える事は何もない。頭に血が通いきっていない、めちゃくちゃ思考で漠然と憎しみに似た感情がわき上がった。
我に返った頃には、あの夢と同じ。床に千成を抑えつけて、首を絞める寸前だった。覚えていないと言えない、ワザとじゃない、なんて決して言えない状況。衝動に任せて手に力が入る。思っていた以上に柔らかい首筋は、案外簡単に折れてしまいそうなイメージがわき上がる。
自分の手の中で、一つの命が終わる。それも俺は確信的に人殺しをしている。それなのに、首の上についている千成の顔は笑顔だった。
喘ぐように抵抗する千成は引き攣った笑いを浮かべ、息の根止まる寸前で「あ・は・は・は・は」と笑ったのだ。まるで何かの冗談だったで、場違いな表情に俺は手を緩めてしまった。千成がげほげほと咽かえり、溜まった涙と唾液を床にこぼしていた。
「なん、で」
予想もしなかった現状に頭が真っ白になる。
「……面白いから笑ったのさ」
つまらなげに千成は吐き捨てる。腰が抜けて、へたり込むと首元には冷たい手。刹那、千成の冷たい手が俺の首を徐々に閉めていく。さっきとは逆の展開。抵抗しようと千成の手に両手を掛けるがびくともしない。千成の手首に俺の爪が食い込む。そこからたらたらと血が流れて、俺の首元に赤い血が落ちる。
酸欠でふつふつと肺の隅っこから熱が湧き出してくる。
「真也」
千成の声。なぜか遠く感じる。瞳を閉じた。
限界だった。
あぁ、俺は死ぬんだ。なんて。
――不意に首の圧迫から解放された。さっきの千成と同じように咽て空気のありがたみを感じる。ぜーぜーと気管から吐き出される自分の空気にイラついた。
「ね。面白いでしょ」
「……正気か」
冷やかに笑う千成。頭のおかしな人。狂ってる。そう思ったが、喋るよりも息をする事を優先させたため口には出せなかった。
「正気? 君がそんなことを聞くんだ」
声色が、狂気を帯びている。クラスに紛れている時とは違う、黒くドロドロとした声色。
「いや、そうだね。自分の事なんて分からないか」
クスクスと笑う千成は別の生き物に見えて仕方がない。正気じゃないから、何を言っても許されるような気さえしてくる。だいたい、一般的な常識をわかっていたら、こんなマネはしてこないだろう。だから俺は千成に向かって「そうだな。分かってる奴は、こんなことしないだろうし」と同じような呆れた断定系を吐いたのだ。
「お前だって、正気じゃないだろう」
千成は笑顔を解いて、俺の服の襟を掴みかかって怒りにまかせたようだった。零度から百度へ沸騰したかのような怒号。だけど千成の怒りのゲージは上るのが早ければ下がるのも早かった。
「真也も十分、正気じゃないさ。首を絞めるなんて、普通は一生に一度もやらない」
すぐに千成は襟を離し、無表情で言った。
「何で正気じゃないと思うんだ」
愚直に質問すると千成はなんの感情も籠っていない声で「僕に執着し過ぎだ」と応えた。それに対して俺は何も返せなかった。気が付かれている事に少しだけ怖くなった。
静寂だと思い込んでいた保健室は校庭からバカみたいに騒ぐ音さえも聴こえる。まだ授業中だという事を忘れてしまっていた。――きっとこれが、正気じゃないのだろう。
「真也は僕に何を求めているの」
「別に」
三つ音を発音するだけで、全身のエネルギーを全て持っていかれた気がした。気だけじゃなくて、この数十分のやり取りが、俺にとって気が遠くなるほど長い時間の様な気がした。
「嘘吐き」
千成は俺を区分してカテゴライズした。この数十分のやり取りが、俺にとって気が遠くなるほど長い時間の様な気がした。今は何時。時計が近くにあるのに、時計の読み方を忘れてしまった。
「嘘つきは嫌いだ。だから真也が嫌いだ」
喋るのも疲れているのに、千成は容赦ない。千成が俺を床に押さえつけて、何か言いだけだった。
「俺は千成が何を考えているのか分からない」
「僕は何も考えていないよ」
「千成こそ嘘つきなんじゃない」
肩の力を抜く。脱力した腕は役目を放棄してしまった。抵抗することはハナっから諦めて、考えることもやめたくなっている。
視界のど真ん中に写る千成は俺が放った嘘吐きという言葉の否定系を言い表す事が出来ないらしい。口を少しだけ開けているのにもかかわらず、黙ってしまっていた。
「嘘つき。だけど俺は千成が好きだよ」
景色が枯れて見えた。全部白黒に近い茶色に見えた。
「嘘つき。だから僕は真也が嫌いだよ」
千成が何に嘘をついているのかは分からない。だけど、何かを偽っている。それは日常が面白いとか全てが大切とかそんなところ。誰もが大切だと思っている事を、どうでもいいと思っている本心を隠すと言う嘘。大切なのは、みんなと同じ物だよって言う、そういう嘘だろう。
俺と同じ。
俺と同じ嘘を自分につき続けているんじゃないのか。
だから千成は俺の事を嫌っていのではないだろうか、なんて。自意識過剰な答えが脳裏によぎる。
「殺せよ。千成が楽になるぜ」
宣戦布告をしたつものだったのに「そっくりそのまま返すよ。真也、楽になるよ」なんて言い返す。水をうったかのような沈黙。
千成に感じた違和感。今言わなくてもいい話。それなのに、疑問に思った事をそのまま口にしてしまった。
「千成は。……本当は〝俺〟って一人称じゃないのか」
「唐突に何だよ」
無表情のその瞳。
「僕はずぅーと僕だけど」
「嘘つき」
瞳が憎しみに揺らぐ。あぁ、確かに笑えてくる。俺もさっきの千成のようにあははっと笑った。
「……嘘つきじゃない」
「どこが」
「黙れ」
色で表すとどす黒い紫色。色濃く怒る様に、少しひるんだ。だけど、千成に抱く感情は変わらない。
ほんと、笑えてくる。また手を首にかける。今度は抵抗する気などさらさらなかった。どうでもよかった、とは言わないけど、酷く疲れてしまった。
「ここで千成が俺を殺したら、あんたはどうなるんだろうな」
「どうにもならないよ。……僕は過去も、今も、これからもこのままさ」
「可哀想に」
変わらないじゃなくて、変われないの間違いだろう。このままって言うか、なにも感じられないんだよな。
「かわいそ」
言いかけたけれど、首が締まって視界が髪の毛で隠れる。
「黙れ」
どんな顔をしているのか分からなかった。千成が今どんな表情でその瞳にはなにが写っていて、どうなっているのか分からなかった。ただ、俺に対して怒り殺意だけがふつふつと湧きあがっている事だけは、千成の手から直接伝わってきた。
「千成」
「……」
「そんなに怒るなよ」
スペースキーではじき出される静寂。
水滴が上からぽたぽたと落ちてきた。天上からは雨が降る。……いや、違う。これは雨ではなくて、千成の涙か。
「僕は、嘘つきか」
左目だけからたらたらと流れる液体は、俺の頬に落ちてきた。
「さぁ」
「……俺は、嘘なんてついてきていない」
「俺は、千成の過去は知らない」
「俺も、真也の過去は知らないよ」
千成は俺から手を離した。だけど自由になっても動ける気がしなかった。千成は床にぺたりと座って泣きだした。嗚咽とでも言うのだろうか、悲鳴のようなか細い声を上げている。人の泣いた所なんて、あまり見たことがない。特に、同世代の人間なんて、どんなことがあっても、めったに涙を流すことなどないのだろう。
思考を少し動かしただけなのに、脳は現実を拒んだ。俺は重い瞼を閉じ、そこで意識を失った。少しだけ喉元に、千成の手の感覚を感じた。
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