第三の目
目を覚ました僕は、布団からもぞもぞと手を出すと、鼻に触れた。
(鼻が冷たい……)
そのあまりの冷たさに、ぶるりと震える。
部屋の中は冷え切っていて、キンとした鋭い空気に、吐いた息は白くうねって消えた。
(今日はだいぶ冷えるな……)
鼻は薄い皮膚の下にすぐ骨がある。そのためか気温に敏感で、寒い朝は顔のどの部分よりも冷たくなっているのだ。今では、起きた時に鼻に触れた感じで、大体の気温が分かるようになってしまった。
(マイナス、ってとこかな)
思えば、これまで僕はこんな風に季節を肌で感じることに疎かった気がする。
一人暮らしのアパートは、商店街の裏で、アーケードを通れば雨に濡れることなく駅まで行くことができた。
外気で夏か冬かくらいは感じるが、それも電車に乗るまでだ。乗ってしまえば、夏は夏で汗が一瞬で引くほどクーラーでキンキンに冷えているし、冬は逆に汗が噴き出すほど暖められている。公共の建物もそんな感じで、季節というものに鈍感になっていたような気がする。
そういえば、バイト先の店も駅に直結したレンタルショップだった。仕事中は外の景色が見えない場所で、昼なのか夜なのか、季節どころか時間の感覚さえも麻痺してしまうような日常を過ごしていた。
(いつもより、空気が鋭い感覚がする。もしかして、また雪が降ってるのかな?)
僕は布団の脇に置いていた着替えを布団の中に引きずりよせ、もがきながらもなんとか、布団の中で着替えた。
少しぼんやりとしていた意識も、冷え切った服を着た時には、もうすっかり起きていた。
カーテンを開けると、案の定、外は雪景色だった。
道路も、小屋の屋根も、木々も、こんもりと雪を乗せ、そこに青い影が伸びている。夜のうちにだいぶ積もったようだが、今も小さな雪の粒がしんしんと静かに重なっていく。
「雪だ!」
気持ちが少し高揚したまま部屋を出ると、太郎さんが呆れたように僕を見た。
「雪がそんなに珍しいかね」
「僕が住んでいたところでは、滅多に積もらなかったので」
「まあ、あんな車でここに来る時点で、慣れてないことはわかるがな」
それを言われると弱い。
ここが国道から逸れて、いくつかの山を超えて、更にそのまた奥にある集落だということは調べていたから知っていたけれど、これほど天候に差があるとは思っていなかった。
あの時、
「おはようございます!」
「おはよう。なにをそんなに急いでいる」
「みことさん、雪ですよ!」
「ここでは珍しいことではないぞ」
そうだろうけれど、僕にとっては珍しいのだ。
この村に来た時の吹雪を除けば、雪というものは地面に落ちた瞬間に消えてなくなるものだった。たとえ積もっても、数センチ。それだけで交通は麻痺し、学校は休みになる。それは面白味のない日常の、ほんの少しの非日常だったのだ。
一階の居間は、既に囲炉裏に火が入れられ、ほんわりと暖かい。僕はそこを通り過ぎると、障子を開けて土間に降りた。
毎朝、朝食の後で土間の掃き掃除をするのが僕の仕事だが、その時外側の木戸を開ける。雪対策のため、入口は木戸とガラス戸の二重になっていて、開店中はガラス戸だけにしている。今はまだ木戸を開けるタイミングではないのだけれど、二階から見た景色をもっと近くで見たくて、僕は急いでガラス戸を開け、続いて外側の木戸に手をかけた。
ゴロロと少し大きな音をたてながら、両手で一気に開けると、僕はあまりの眩しさに目が眩んだ。
「うわ~っ、眩しい!」
「当たり前だろう。こんな暗い場所から急に外を見たら、眩しい」
僕がなにをするのか気になったのだろう。みことさんが後ろにいた。
「そうじゃなくて……。雪がこんなに眩しいなんて思ってなくて」
「雪は降っているが、今日は天気がいいからな。お天道様の光が雪に反射して、普段よりは眩しく感じる」
「なるほど~。そういうことですか。わ~、青い! 雪の影って、こんなに青いんですね」
「青い空から降ってくるのだから、空の色が混ざっているのだろうな」
雪の影が青いのは、理屈で考えれば氷河が青いに通ずるものがあるのだろうから、太陽がどうのだの、波長がどうだの、科学的に解明されているはずだ。でも、みことさんの言う言葉の方が、なんだかしっくりとした。
「青い空から降るから、青い……そっか。灰色の空から降る雪が暗く物悲しい感じがするのも、そうかもしれないですね」
「それより、早く閉めろ。せっかく暖かくなった空気がまた冷えてしまう」
「あ、すみません」
僕が木戸に手をかけると、みことさんはそれを制した。
「閉めるのはガラス戸だけでいい。少しは明るいだろう」
囲炉裏のある土間は、建物の中央にあり、窓がない。常に照明がつけられている薄暗い部屋だ。それでも、木戸を開けておくだけで、障子越しでも雪に反射した明るい朝の陽ざしがわかった。
「間もなく、次郎が通るだろうしな」
「次郎さん?」
という事は、次郎さんは出かけているということか。こんなに朝早くから、一体どうしたのだろう。
太郎さんと次郎さんは、万屋で乗り合いバスの運転手をしている。
赤と青のツートーンカラーのワゴン車は、依頼があると迎えに行き、行き先は、村の外への買い物や病院が殆どだ。でも、こんなに朝早くは聞いたことがない。不思議に思っていると、外からガガガガとなにやらいかめしい音がした。見ると、大きな青い除雪車が雪を左右に押しのけながら向かって来る。運転しているのは、勿論次郎さんで、僕に気が付くと、手を振ってくれた。次の瞬間、ガガガガと大きな車輪とそこに絡められた鎖が道路に打ち付けられる音と共に、大量の雪が舞い上がる。一瞬、遭難しかけたあの時の景色を思い出して、目を瞑ってしまったが、目を開けると、大量の雪が店の前を塞いでしまっていた。
「うわ! これじゃ、店に誰も来れないじゃないですか」
「開店準備の時に、店の前を雪かきしなければならないな。その腕では無理だろうから、太郎に頼むといい」
除雪車はあくまで村の道路の雪を除けて平らにならす。左右に山となって残された雪は、それぞれ住民が雪かきをしなければならないそうだ。
この積雪を予想してか、既に土間の隅には、様々なサイズの雪かき道具が置いてあった。中には人がひとり乗れるような大きなレンゲのような物や、半分になった円柱が先についた物もある。なんとなく使い方は想像できるが、とてもではないが効率よく使う自信はない。
「除雪車は、次郎さんだけ運転するんですか?」
「そうだが、なぜだ?」
「除雪車が青かったから、次郎さんの――」
あれ?
僕はどうして、青い除雪車を運転するのは次郎さんだけ思ったのだろう。
思考の波に攫われて黙り込むと、みことさんの言葉がそれを阻止して、僕の意識を引き戻した。
「太郎はあの通り、ガサツだろう。以前、豊婆の家の塀を壊してな。えらく怒られた。それ以来、除雪車は次郎。太郎は、次郎が除雪した後の家周りをやっている。あれは体力だけは誰よりもあるからな」
その言い方に、思わず噴き出す。
太郎さんはその大きな身体と腕っぷしで、力仕事がなにより得意だった。その代わり、細かな仕事は苦手ということだ。適材適所、ということだろう。
僕は、ちゃんと役に立っているだろうか。
少し不安になった。
「今日から寒い日が続くようだ。今日は与吉のところに行ってくれないか」
与吉さん……。初めて聞く名前だ。
みことさんが言うには、彼は炭焼きをしていて、あまり外に出ることが無いと言う。
だが、炭焼きと言われてもピンと来ない。
「炭焼きと言うのは、木を炭にする仕事だ。この辺りは、囲炉裏の家が多い。寒くなると炭は毎日使う。だから、冬の間は店に置くようにしている」
万屋の仕事は、大体が注文を受けてからになるが、先日太助さんに売った藁靴のように、店に出している物もあるようだ。冬場は特に炭が重要で、その為にこの広い土間を空けておいてあるようだった。
*
帰りに炭を持ってくるように言われ、僕はソリが繋がれた縄を渡された。
ソリと言っても、雪遊びで使うようなプラスチック製のものではなく、大人が体育座りで入れる程の木箱の底に、スキー板がついたようなソリだった。
「その腕では、運べないだろう。これを使うといい」
「はぁ……」
でも、これでは傘が差せないじゃない。そう言うと、みことさんが不思議そうな顔をした。
「傘? そんなもの、なぜ必要なんだ」
「いや、だって、雪は濡れるし……」
「外に出てみろ」
土間から外を見ると、窓の向こうはまだ雪が降り続いている。
いや、これは濡れる。片手しか使えないのに、ソリと傘のダブルは無理だ。だが、外に出て見ると、雪はダウンジャケットの上にふわりと優しく落ち、そのままとどまった。
僕の腕に乗った雪は、みことさんがふぅっと息を吹きかけると、またふわりと宙に舞う。
「この雪は水分を含んでいない。払えばそのまま落とすことができる雪だ。まったく濡れないわけではないが。傘を差す程でもない」
「へえ……。スノボやってる友達が言うパウダースノーって、こういう雪なのかな」
「その呼び方は知らんが、雪は一種類じゃないということだ」
僕がこれまでの人生で触れてきた雪は、触れれはすぐに解けて服を濡らすものだった。そんな状態なものだから、雪が触れた場所からどんどん重くなるようなものだった。最悪なのは足元だ。すぐにびちゃびちゃになり、防水スプレーの効果もない程、靴は使いものにならなくなる。でも、それも今は違う。
(きゅむきゅむって音が鳴る)
雪かきをし、歩きやすく整えられた道でも、雪は次々降り積もる。そこを踏むと、きゅむ、きゅむっと、音が鳴るのだ。
「呼び名も様々だ。気温もそうだが、季節も関係する。春が近づけば、雪質も変わる」
「へえ~。楽しみだなぁ」
「……まあ、その時までここにいたら、教えてやろう」
みことさんの言葉に、僕はなにも言えなかった。
僕はこの村の人間ではない。当たり前のことだし、僕自身日帰りのつもりでこの村に来たのだった。村を見て周辺の温泉でゆっくりし、実家に帰る。村で写真の一枚も撮って、おじいちゃんに「行って来たよ」と報告するつもりだったのだ。
でも、なぜかそれをみことさんに言われると、寂しく感じた。
「さて、本題だ。いくら乾いた雪でも、ここでずっと話していると雪だるまになるぞ」
「あ、はい。ええと、与吉さんの家って……?」
「与吉の家は、あの山の方に延びる坂を、登ったところにある。二軒、煙が出ている建物があるが、左側だ」
「はい」
その他、帰りの下り坂は、ソリを先に行かせて後ろから縄を引っ張って下りて来るようにと言われた。
「くれぐれも、一緒に乗って滑って下りてこないようにな」
「子供じゃないんですから、そんなことしませんよ」
「まだ子供だろう。いくつになる?」
「もう二十二ですよ。みことさんとそんなに変わらないと思います」
「私か。私は、二……」
「ほら、僕と同じ二十代じゃないですか」
落ち着いた雰囲気とその物腰から、もしかしたらもう少し年上かなと思っていたけれど、同年代のようだ。となると、やはりみことさんが祖父を直接知っているはずがない。
「……お前よりは年上だ。炭は、密閉した状態で持ってこなくてはならない。湿気で質が悪くなるからな」
知らなかった。よく、脱臭や湿気取りに炭のインテリアが使われていると思っていたが、それは勘違いだっただろうか。
「いや、そのような目的で使用することもある。夏場は、湿気取りや脱臭剤として使うことも多い。つまり、炭は臭いも湿気もよく吸うんだ。だが、それを囲炉裏で使うことはない。湿気を吸った炭は、燃やすと
「
「弾けて火が飛び散るんだ。与吉が焼く炭は品質がいいから、保存方法さえ間違えなければ、そんなことは起こらない」
そんなに危険なものなら、電気ストーブとか灯油ストーブにしたらいいのに、とも思うが、囲炉裏の暖かさと、あのなんともいえない優しい空間がなくなるのも寂しい。
外国では暖炉の映像をただただ流すという謎のチャンネルがあり、癒されるとかなんとかで高視聴率なのだと、なにかのテレビで見たが、今となっては理解できる。
囲炉裏の炎を見ていると、自然と心が落ち着いて、身体の余計な力が抜けていくような気がするのだ。気が付けばじっと見ていて、かなり時間が経過していることもある。つまり、僕にとっては囲炉裏がお気に入りになってしまったのだ。となると、その囲炉裏の命とも言える炭を作っている光景はとても興味がある。僕は、張り切って与吉さんの家に向かった。
村人の数はそんなに多くないが、それぞれの家が点在していることもあり、村の面積はそれなりに広い。与吉さんの家がある山の方へ行くのは、初めてだった。
思ったより急な坂道を、藁靴できゅむきゅむと音を立てながら登ると、みことさんの言うように煙の出ている建物が並んでいた。
(え~と……。左側って言ってたよな)
煙が出ている建物の左側、と言われると不思議なもので、じゃあ右側は果たして何なのだろうと思ってしまう。だが今は万屋の仕事の途中なので、気になりながらも左側の戸を叩いた。
「ごめんください。
「はい」
右側の煙はなんだろうと、少し気が取られていたのだと思う。だから、戸を開けた人物が手ぬぐいで目隠しした姿で出て来た時は、おかしな声を上げてしまった。
「ええっ!?」
「おい、人を訪ねてきておいて、驚くってのはなんなんだ」
「えっ、いや、あの。す、すみません。ええと、あの……与吉さんですか?」
「だから、さっき『はい』って言っただろう」
「あ、はい。そう、ですね」
「炭だろ? そろそろ来る頃だと思ってたよ。そこに箱を置いてあるから、みこと様に持って行ってくれ。くれぐれも、蓋が開かないようにな。なんだったら、俺がソリに乗せてやろうか?」
「いや、大丈夫です」
与吉さんは、目隠ししているにも関わらず、正確に箱の場所を指差すと、僕がソリを引いてきたことも、まるで見えているかのように話した。
「はい。あの……、どうして目隠ししてるんですか?」
「ん? ああ、炭焼きは結構繊細なんだよ。煙のちょっとの違いで出来が変わるからな。こっちの目は余計な物まで見えるだろ」
「でも……見えないと、大変じゃないですか?」
与吉さんは、僕に入るように手招きすると、小屋の奥へと向かった。その足取りには、なんの迷いもない。
「これが窯だ。これで炭を作ってる。煙の匂いで火を調整するんだ。今、ちょうど塞いだ穴を少し空けて空気を入れたところだ。見てみるか」
「え、いいんですか?」
なんの警戒もせずに開けられた穴から覗き込むと、熱風と弾ける炎の明るさに目がチカチカし、僕は尻もちをついてしまった。
「目が……! 目がぁ!!」
「こら! まともに見るんじゃない!」
そんな無茶苦茶な。
見てみろと言ったのは与吉さんで、僕はそれに従ったまでなのに。
じわじわと溢れてくる涙を手で拭うと、与吉さんは指で自分の額をトントンと叩いた。
「ここだよ。第三の目で、見るんだ」
額にある薄い痣が、与吉さんの指の下でぐにぐにと動いた。
驚いて目を擦るが、まだ先ほどの炎の灯りが瞼にちらついている。
再び見た与吉さんは、先ほど僕が覗いた穴に額をくっつけるようにしていた。
(与吉さんの額の痣が生き物のように動いたような……錯覚かな?)
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