藁靴、いいですよ
僕の一日の最初の仕事は、土間の掃き掃除だ。
この家屋は昔ながらの茅葺きのお屋敷ということもあって、土間部分が広い。土間は万屋という商売の受付でもあることから、毎日の掃除は大切な仕事だ。
それにしても、この土間を初めて見た時は心底驚いた。
壁一面にお札のようなものが貼られていて、異様な雰囲気を醸し出していたのだ。ただ、書かれている文字も墨で達筆だったため、不気味さが際立っていたのだが、よくよく見てみたら商売の内容が書かれているだけだった。少し色あせた和紙に、先日もおこなった『味噌作りやり〼』というものがあるし、新しい白い和紙には『民宿』と『見習い募集して〼』が加わっている。これらはきっと、僕が来てから付け足されたものなのだろう。
「なになに? 『川魚取り寄せ〼』? へぇ……手広くやってるんだな」
「まぁな。なかなかのものだろう」
「うひゃっ」
背後から声がして、思わず飛び上がる。
いつの間にか土間に通じる障子が開けられており、そこにみことさんが立っていた。
「いるならいると言ってくださいよ。びっくりするじゃないですか」
「いる」
「今言われても、びっくりした後ですよ!」
「小さなことを。で、なにを見ていたんだ?」
「コレですよ。最初お札みたいだと思って、ちょっと気味が悪かったんですけど、万屋で請け負ってる仕事、こんなにあるんですね」
ただ、そのメニューの枚数の割には、この土間にはあまり商品は並んでいない。
一応ショーケースのような棚はあるが、ガランとしている。
入口の棚に、味噌づくりで僕も履いたくるぶしまでの藁靴や、大きさの様々な木樽、石鹸やたわしがある位だ。
それに、これらのメニューには値段が書かれていない。
「気味悪いは余計だな」
「すみません」
「まあ、いい。物にはそれぞれ旬があり、時価というものがある。価値は天候や季節で左右するものだ。この村の者たちは、皆なにかしらの仕事を持っている。それらの物々交換が多いんだ。となると、せっかくの物品が無駄になるのは避けたい。そうなると、窓口も必要だろう。この店はそういう場所だ」
「味噌作りも、そういうことなんですか?」
「味噌作りは、手間も人手も要る。それに、村人の皆が必要なものでもある。人数集まって作った方が、手っ取り早い。そういうのを取りまとめる仕事さ」
「へえ~。そういうの、いいですね。都会ではひとりでも作れるような、『手作りキット』とかあるみたいですけど」
「“手作り”と言っておきながら“きっと”とは。街の人間は虚言癖でもあるのか」
「は?」
……………………。
沈黙が流れた
ダジャレか? みことさんが?
いや、みことさんはいたって真面目な顔をしている。僕は慌てて訂正した。
「……いやいや、“きっと”って推測のきっとじゃなくて、ええと……手作りに必要な材料がまとめられている物が売ってるんですよ。
「それを皆で作るのか」
「あ、味噌は大体買うと思いますよ。キットはひとり用じゃないですかね」
都会では、近所付き合いは薄いから――そう続けると、みことさんは少し寂しそうな顔をした。
「知っている。ここにも以前はもっと人間がいたものだ。慣れ親しんだ場所よりも、便利を選ぶ者もいる」
「みことさんは、ここにいて不便とか思わないんですか?」
「――ここでしか、生きられない者もいる。便利を不便と思う者もいる。快適に生きるために、わざわざここを出る必要もない。便利にしていくことはできる。意外と快適だろう?」
確かに、古い家屋に正直戸惑っていた僕だったけれど、トイレもキッチンも新しくて驚いた。
トイレは入ると自動的に照明がつくし、立ち上がると自動で流してくれる。キッチンにも最新の冷蔵庫が置いてあり、古びた壁とのギャップがシュールだ。お風呂は少し古い檜風呂だが、温泉が引かれているから、これはこれで良い。
それに……。
チラリと藁靴を置いてある棚の上に目をやる。
ここにもやはりお札のように和紙が貼りつけられており、達筆で『Wi-Fi』と書かれているのだ。
「ええ、本当に。まさか村の皆が、スマホやタブレットを扱っているなんて思いませんでしたよ」
「ここで出来る便利のひとつだからだ」
「意外でした。この村の雰囲気だと、例えば
勿論、僕は冗談でそう言ったのだ。けれど、みことさんは、またほんの少し寂しそうに眉を垂れた。
「……人と交われど人には成れぬ。成りきれねども、元にも戻れぬ」
「え? なんです?」
「こうありたいと願っても、成れぬものだ。それに気づいた時には、様々なものを失った後なのさ」
みことさんは時々、小難しいことを言う。
僕はかみ砕いて話して欲しいと聞いたのではなくて、なんの話かを聞いたのだ。ただ言い回しを変えたところで、分かる話でもなかった。
だが、みことさんの中ではもうその話は終わったらしい。
「さ、無駄話はここまでだ。豊婆から注文が入ってな。今日、ここに太助が川魚を持ってやって来る。太助が来たら、武子を呼んでくれ」
「はぁ……。で、その太助さんって、僕が見てもすぐ分かりますか?」
「多分な。だが、店が閉店状態じゃ、太助も帰ってしまう。早く暖簾を出すことだな」
みことさんに言われて、店の暖簾を出していないことに気がついた。
僕は箒を置くと、隅に立てかけてあった暖簾を手に、慌てて外に飛び出した。
「う、わっ!」
ツルリと足が滑り、慌てて戸を掴んだ。おかげで転ぶのは免れたが、とっさに掴んだのが左手だったため、ズキンと痛みが走る。
「気を付けろ。雪は解けた時が滑るんだ」
「早く言ってくださいよ……。いてぇ~」
「そんなものは常識だろう」
村に来た時たくさん積もった雪も、ここ数日の天気でだいぶ解けていた。
僕はてっきり、スキー場のように踏み固められた雪が、よく滑るのだと思っていたが、違うらしい。みことさんが言うには、一度積もった雪が解け、水になって流れていく途中に、夜気温がさがって凍るのだそうだ。
それにしても、僕が履いているのは名の知れたブランドのスノーブーツだ。それが滑るとなると、もうどの靴でも滑るのではないだろうか。
「違うな。歩き方にもコツはあるが、ほら、お前にやっただろう、藁靴。この辺ではあれを履いておけ」
「ええええ~?」
「試しに履いてみろ。意外と暖かく、滑らないものだ」
味噌作りで暖かいことは知っているが、滑らないというのはイマイチ納得できない。とはいえ、勧められて固辞するようなことでもない。
「……あれ。ほんとだ」
「さっきからそう言っている。では、後は頼んだぞ」
「あ、はい」
店の中に戻って箒を片付けていると、外からなにやらうめき声のようなものが聞こえた。
「なんだろう? ……あ! 大丈夫ですか!?」
ガラスの向こうを覗き込むと、そこにはひょろりと手足が長い男の人が、滑って転んでいるではないか。しかも傍らには、彼が持ってきたと思われる
「イテテテテ。滑ったぁ」
「解けかけた雪が凍ってるみたいですから」
さっきみことさんから聞いたことを、早速使ってみる。それにしても、飛び出た物も含め、魚籠の中にはかなりの数の魚が入っている。
「すごい! たくさんですね」
「ああ。ウグイにヤマメのフナ……。豊婆は、ヤマメが好きだから――ところで、おめえ、誰だ?」
「あ、僕は
「ああ。そうだ。そうかぁ、おめえが真吾か」
小さな村だ。会うのは初めてだが、誰かに話を聞いていたのだろう。太助さんは人懐っこい笑みを見せた。
それにしても、太助さんは頭には毛糸の帽子をかぶっているが、服もズボンも七分ほどの長さで、外気に触れている腕も足も冷たそうだ。こころなしか、彼の顔色も青く見える。
(青……っていうか、緑っぽいけど……。大丈夫かな)
しかも、身体に対して大き目の足は素足だ。これでは滑って転んでも仕方がない。もしかして、川辺に忘れてきたか、川に流されてしまったのだろうか?
「そんで、豊婆から魚の注文が入ったって聞いてよ。みこと様はおるか?」
「あっ。ちょっと待ってください」
寒そうな太助さんを土間に招き入れ、武子さんを呼ぶ。
「武子さん! あの、太助さんがいらっしゃいました!」
「あ~、ハイハイ。ちょっと待っておくれ!」
ハキハキした声が聞こえ、武子さんが現れた。――ヤカンを持って。
「太助、あんたはまたそんな薄着で……。冷えるだろうに。ほれ、頭をお出し」
「へへっ。ありがてえ」
太助さんは嬉しそうに笑うと、毛糸の帽子を取り、頭を差し出す。
太助さんの頭頂部は丸く禿げあがっていて、なんと武子さんはそこにお湯をかけたのだ。
「えっ? えっ? さすがに熱くないですか?」
「大丈夫だよ。太助はここで温度調節してんのさ。暑けりゃここに冷水をかけるし、寒けりゃ熱い湯をかける。ほら、だいぶマシになったろう?」
「ああ。助かったよ。さすがに川の水は冷たくてね」
武子さんは魚籠を確認すると、みことさんを呼びに再び家の中に入っていった。
確かに、お湯をかけてもらったあとの太助さんは、先ほどより顔色がいい気がした。
(けど、土間はもう一度掃除しなきゃだな……)
ビショビショに濡れた土間を見ていると、太助さんの裸足が目に入った。
いくら頭にお湯をかけてもらっても、裸足ではまたすぐに冷えるだろうに。
「あの……。裸足、辛くないですか?」
「んっ? ああ、俺はいつも裸足なんだ。お湯をもらったから寒くもないしよ」
「でも、多分また転びますよ」
「ああ……さっきのはちょっと痛かったなぁ……。けど、足の指が締め付けられる感覚がどうも嫌いでな」
「あの……藁靴、いいですよ。足の指にも力が入るから、踏ん張れるし」
「……そうか?」
最初は気乗りしなかった様子だったが、僕が履いているのを見て、少し興味が湧いたようだった。試しに履いてみてはどうかと、棚にある中でも大き目の藁靴を渡す。
藁靴を履こうとした時、持ち上げた足の指と指の間に、水かきのような半透明の膜が見えた気がした。
「ん?」
気のせいだろうか。
確認しようにも、太助さんは既に両足を藁靴に入れ、履き心地を確認している。
うん、きっと気のせいだ。僕の見間違いだろう。
「ん~。悪くねえ」
「でしょう? これで転びにくくなりますよ」
「そうか。じゃあ、これもらうかな。これ、やるよ」
そう言うと、太助さんは僕に大きな魚を押し付けた。
「上物だ。俺が食おうと思ってたヤツだけど、藁靴の礼だ。とっとけ」
「は、はあ」
戸惑っていると、そこにみことさんがやって来た。
「太助、ご苦労だった。豊婆からの礼だ」
「あっ、みこと様。いつもありがとうございます」
太助さんはなにやら小さな包みを受け取ると、嬉しそうに抱きかかえる。そして、僕を振り返るとニカッと笑った。
「これ、気に入ったよ。お前、いいやつだな」
そう言うと、今度は堂々と大股で帰って行った。
役に立ったなら良かったけれど、あの藁靴に対価として、この魚はどうなんだろう?
「いいフナだ」
「これ、フナですか」
「太助に藁靴を売ったのか」
「はい……。お礼にこれをって」
「よくやったな」
「え?」
「太助は今まで誰が何を言っても、裸足をやめなかったのさ。お前の話には、なにかを感じたのだろう」
「そうなんですかね……。でも、これが対価になるのか、僕にはよくわかりません」
考えてみれば、僕は魚の種類も、善し悪しも、そして旬もわからない。
物々交換が根付くこの村では、その時その時で物の価値が変わるのだとみことさんは言っていた。この魚一匹で、武子さんか駒子さんが編んだであろう藁靴が、対価となるものかどうか、僕にはわからなかった。そんな僕の不安がわかったのか、みことさんが、フッと淡く笑んだ。
「なにを言う。充分すぎるほどだ。今日はご馳走だぞ。よくやったな」
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