第6話「コクハク」 ―水無月雪音編―

「はぁ~……」

寒い廊下で少し長い溜息を吐く。

「ねぇ兄貴、何で一年の教室前にいるの」

「あぁ?気にするな、我が妹よ」

「いや気にするって……」

俺は無気力なまま妹の頭を撫でようとする。

だがそれは拒否されてしまった。

「ちょ、ちょっと兄貴。女の子の頭を気安く撫でようとしないの!」

「お前がそんな事気にするのか?珍しいな。昔あんなに――」

「わー、わー!ちょっと兄貴こっちに来る!」

廊下でいきなり騒いた為、周囲の生徒がこちらに視線を向ける。

その視線の中から逃げるようにして引っ張られる。

「――どうしたのさ、兄貴」

「いや、少し落ち着かなくてな」

「何がよ……」

「実はな――ごにょごにょ」

俺は事の詳細を妹に説明した。

二人からデートに誘われた事も含めてだ。

実の妹にこんな事を説明する日が来るとは、生まれて初めての経験だ。

「――最低だね、兄貴」

「えぇ?」

ジト目でただ一言。そう言われてしまった。

「この前から何かはあると思ってたけど。まさか二人の女の子を手駒に取るなんて、最低主人公がやることだよ。一人選ばないとダメでしょ!今日の兄貴はダメダメだよ、ダメな兄貴だから駄兄だあにだよ!」

「変な名称を作って、それで呼ぶな」

やめろよ、某有名なゲームの妹キャラじゃないんだから。

何て言ったっけなあの会社。えっと――ゆ〇ソフトだったか。

「駄兄が変な事考えてる顔だね」

「ちょっと待ってくれよ、遥。俺は別に変な事なんて……」

弁解を求めたが、妹の目つきがさらに険しくなる。

「そぉ?いくらお兄ちゃんが変態エロゲーマーだったとして、それを止める権利はアタシには無いし、それでもしお兄ちゃんが犯罪に手を染めるようなら、アタシは兄妹の縁を切らざるを得ない訳で」

「お前、俺の事をどんな人間だと思ってんだよ」

あと無意識かもしれないが、俺への呼び方『兄貴』から『お兄ちゃん』に戻ってるからな。

まぁ二人きりだから良いけど……。

「――それにお兄ちゃんさ」

「ん?」

言葉を改めるようにして溜息を吐いた。

その表情は、昔の事を思い出させるような真剣な表情を浮かべていた。

真面目で、繊細で、いつも真っ直ぐな瞳が俺を見る。

「……お兄ちゃんなら、アタシの誇りのままで居てくれるよね?」

優しい笑顔だ。それを見た瞬間、曇りかけていた俺の心に太陽が射した気がした。

「おう。俺はお前のお兄ちゃんだからな」

「うん」

俺は「じゃあな」と言ってから、一年の教室を離れた。

『遥ちゃん、今のは誰?』

「うん?馬鹿なアタシの兄貴だよ。それで――」

誰かと話す妹の声はもう聞こえてこない。

だがもう何も迷う事は無いだろう。

――まずは月島からだな。

俺の中でもう、答えは出ているのだから――。


======================================


――彼女を屋上へ呼ぶ。

こうして真正面に話すのは久しぶりだろう。

「話って、何かな」

「あぁ、まずはありがとうな」

「何が、かな?」

俺は彼女の問いかけに答えるようにして、ポケットから携帯を取り出して指を差す。

「……メール。デート、誘ってくれたんだろ?」

「ん、うん。それで私の誘いを断りに来たんだ」

屋上のフェンスに寄りかかり、何もかもを察したような表情を浮かべている。

こいつには、隠し事は出来そうにないな。

いつもどおりの調子で、はぐらかすつもりだったけど。

「――俺はお前とはデートに行けないよ、

「……はぁ」

溜息を吐いて、彼女はフェンスから離れる。

「その呼び方、忘れていなかったんだ」

「まぁな、当たり前だろ?俺とお前の仲なんだし。昔はこうやって普通に呼び合ってたんだけど、あの日を境に中学3年で呼び方は元に戻っちまった」

「うん」

やべぇなこれ、心底胸糞悪い。

過去の話題から入るつもりはなかったのに、結局こうなっちまった。

「秋穂っち。お前はいつから……俺を――!?」

理解するよりも早く、俺の視点は真横へと動いた。

左頬が痛ぇ。

なるほど。今俺は、彼女に殴られたのか。

「元に戻ってたのは彼方っちの方。私はずっと呼んでた!ずっとあの時のまま、元に戻れると思ってた!」

「……っ」

目の前で糸が切れたようにそれは爆発した。

いや、爆発させてしまった。

「……辛かった。ずっと、あの時からずっとだよ?私はずっと待ってたのに。戻ってきてくれるって、あの時みたいにまた呼び合えるようにって」

「そうだな。俺は逃げてたかもしれないな」

「うん、そうだよ!彼方っちは逃げた!皆からじゃない、他でもない私からっ!」

叩かれる胸に痛みはない。

だけど叩かれるはずのない胸の中が痛かった。

「俺がお前とデートに行けないのは、お前とはその親友で居たいからだ。勝手かもしれないけどな」

「勝手だよ。高校になって少しは、振り向いてくれるかもって思ってたのに……あの先輩じゃ、私じゃ勝てないじゃん」

痛くて、苦しくて、それでも俺は彼女の頭に手を置く事はしない。

してしまったら、俺の放った言葉が嘘になってしまうから。

自分の決意を曲げてしまうから。

何よりあの時の約束を破ってしまうから。

「――月島、俺は……」

「やり直し」

「は?」

「名前、元に戻す必要ないでしょ」

照れくさそうに目を逸らしてそんな事を言ってくる。

俺は心底、昔の自分が馬鹿馬鹿しくなった。

「ぷっ……ははは、っはははは」

「な、ちょっと女の子を振っておいて笑うの?ひどっ!鬼っ!馬鹿!」

……笑みが込み上げてしまった。

「はははは……悪い」

「ったく、心底先輩が可哀想に思えてきちゃったよ」

「何だよ、妬くのか?」

「哀れんでるのよ、勘違いすんな!」

「痛ぇ!?」

足払いをされ、やや青くてオレンジ色が混ざりかける空が見える。

彼女はそれを上から覗き込み、無邪気なあの頃のような笑顔を浮かべる。

差し伸べられた手は昔のままで温かい。

「先輩の事、泣かしたら殺すから」

「それは困るなぁ。殺されたらしたい事が出来なくなる」

「えっちぃ事とか?うわー、引くわー」

「だ、誰もそんな事言ってないだろ!?」

「でもしたいんでしょ?」

「お前には関係ねぇよ」

「むっ……お前じゃないよ、彼方っち」

引っ張られながら言い合う言葉が背中を押してくれる。

もう少し前に気づいたら、惚れてたかもしれないな。

「これからよろしく、親友」

「あぁ、よろしくな。秋穂っち」

コツンと合わさる拳は、まるで友情の儀式かのように胸が熱くなった。

「それじゃあ、私はここで少し風に当たろうかな」

「え?」

「何が『え?』よ。先輩に言うんでしょ。早く早く、行きなさい」

「あぁ、おい、分かったって。だから押すなよ。階段落ちるだろ」

俺は背中を押され、半ば無理矢理屋上を後にしたのだった――。


「はぁ~あ……やれやれ、世話の掛かる親友だこと……」

伸びをしながら私は空を見る。

だけど徐々に霞んでいき、その場にただうずくまるのだった。

全ての思いを。

これまでの想いを。

頬を伝う、温かい気持ちと共に流すように――。


======================================


送ってしまった。送ってしまった送ってしまった送ってしまったぁ。

どうしよう。まだ自分自身が何も準備出来てないのに。

『彼方は貰います』

机に突っ伏すと朝の事を思い出す。

何でこうなって、何で頭を抱えているのか。

それは酷く明確で。とてつもなく明らかだ。

言ってしまった事で、改めて自分の気持ちをはっきりと理解出来てしまった。

私は今初めて、ちゃんとした恋をしている……と思う。

ベッドがあったらダイブしたいし、穴があったら入りたいという気分だ。

放課後まであと少ししかないのだが、私は何も準備出来ていない。

「……うぅ」

『雪音~、あんたにお客さん来てるよ?』

「えぇ?だれ……??」

『え、あんたの後輩じゃないの?』

「…………」

「あ、どうも」

突っ伏していた顔を上げて、私は教室の入り口にいる彼の姿を見つけてしまった。

後頭部に手をおいて、気まずそうな態度をしている姿だ。

「――彼方、くん」

私は誰にも聞こえない声でそう呟いた。

そう言った途端、私の胸の中にストンと何かが落ちた音が聞こえたのだった――。

「……えっと今、時間空いてますか?」

「うん、何かな?」

廊下に出るなり、制服や髪の毛を弄ったりと落ち着かない。

自覚してしまうとこうなるのか。

彼の目どころか、顔すらまともに見れなくなるとは思えなかった。

このまま逸らし続けたら、嫌われたりしないだろうか。

「まずは先輩、メールありがとうございました。とても嬉しかったです」

「良いよそんな、頭をそんなに下げなくても!」

「……そうですか?でもちょっと今は、あまり見られたくない顔をしてるので。恥ずかしいし、見ないでいてくれると助かります」

私は何故かと思い彼の顔を見る

彼の顔には薄っすらと分かりにくく、頬が微かに赤くなっていた。

困った事に彼の見せた笑顔の中には、前よりも遥かに優しい笑顔をしているのだ。

「それでですね、先輩。あのメールの答えなんですけど、先輩と行く事を選びます。選ぶとか生意気に言ってますけど、正直俺は先輩に相応しいかどうかなんて自信なんかありません」

ゆっくりと鼓動が聞こえ、徐々に彼の表情が真剣な物へと変化していく。

「でも、それでも上手くは言えないけど。俺は先輩の笑顔が好きです。誰とでも隔てなく接する先輩が好きです。頑張ろうとしてるのに危なっかしい先輩が好きです。俺は先輩が好きです――」

「…………」

もう野次馬など気にしていないように言葉を並べている。

恥ずかしいのを我慢して、やや頬が赤くなっている君が可愛らしく思える。

愛おしく思ってしまう。

「――だから次は俺から言います。俺とデート、行ってくれますか?」

「私でいいの?」

差し伸べられている手を握らず、私は確認するように口を開いていく。

「……はい」

「私は案外ワガママだよ?甘えちゃうかもだよ?」

「ドンと来いですがお手柔らかにお願いします」

「ぷっ……そこは謙虚に言うんだ」

「でも俺の気持ちは本当ですよ。ここまで大事な友達とランクアップして、大親友の契りを交わしてきたばっかりなんで。ここで何も持って帰れなかったら良い笑い者です」

「それを今言うのは、ちょっと格好悪いなぁ。さっきまで格好いいかもとか思ったのに」

「性分なんで」

「便利な言葉だね」

「そうですね」

少しの静寂。

自分の鼓動しか聞こえず、黙っているだけで胸が張り裂けそうだ。

「――デート」

「……?」

「デート、楽しみにしてるね?」

「――はい!」

『おおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!』

彼がそう返事した途端、タイミング良く周囲が騒ぎ始めた。

黄色い声や何やら悔しがる声が所々混じっている。

当人たちより、周りが盛り上がっているのが不思議だけど。

私と彼は今、晴れて恋人になりました――。


「よろしくね、彼方くん♪」

「……先輩、もう一回」

「何がぁ?」


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