中編
酔い潰れたヤサが目を覚ましたのは、次の日の昼だった。
「頭、いたい」
「お水飲んで、少しはよくなるよ」
キヨワは古ぼけた皿に注がれた水を、ヤサの方へ鼻で押しやりながら言う。優しい気遣いに、ヤサは水を少しずつ飲んでいく。
「ここは?」
「昨日言っていた神社の境内だよ。ボクたち家族の根城だよ。今日からヤサはここで暮らすんだ」
微笑んだキヨワは、ヤサが黙って水を飲み干すのを眺めた。
「少し古いけど神主さんはいい人だよ。ボクたちのご飯とかも用意してくれるし、お供え物も別けてくれるんだ」
「へぇー。僕の所はもっぱらネズミだったな」
感慨深そうに言うヤサに、キヨワは首を傾げた。
「ボク、家で飼われているのしかネズミって見たことないんだ」
「そうなのかい?見たらきっと驚くよ!大きいんだ」
ヤサは驚いて、体を震わせる。
ネズミを見たことがない猫がいるなんて、意外だ。
「あと、昨日の来てた猫について知っていたら教えてくれない?」
「やっぱ、気になるもんね」
キヨワは必要のない毛繕いをしながら、答える。
「あの猫はヨゴレさんっていって、昔はすごい美人猫として有名だったんだ。愛人もいっぱいいて、父さんもその一人だったんだ」
特別、目をかけてヨゴレを囲っていたそうだ。
当時とかけ離れた見た目と名が付いてしまっているが、キズアトと同年の雄猫たちは彼女に惚れていた。しかし今ではあの状態で、当時の名で彼女を呼ぶ猫は誰もいない。
「かわいそうな猫なんだ。ある日、突然理由も分からずあんなふうになっちゃって、父さんは理由を知っているみたいなんだけど、話してくれないんだ」
「へぇ。でも、嫌われているのはなぜだい?」
そう言うと、キヨワはちょっとだけ言いにくそうに声を潜めた。
「やっぱり当時、惚れていた雄猫たちにしてみれば廃れた姿に腹が立つらしい。他にも匂いで嫌がる猫は多い。昨日、宴会に集まっていた猫たちの大半が家猫だからそういうのは敏感なんだよ」
やはり、匂いかとヤサは毛繕いを始めた。田舎にいたヤサにとって、ヨゴレの匂いは確かに酷いものだった。でもそれ以外は嫌だとは思わなかった。
「キズアトさんは?」
「父さんは所用で出てる。夜には帰ってくると思うけど、どうしたの?」
「今からヨゴレさんに、会いに行こうと思ってさ」
水を飲んで元気になったヤサは、キヨワの横を通り過ぎる。
「今から!さっきまで寝てたのに、大丈夫?」
「歩いていれば治るよ。途中で休憩もするし」
「大丈夫かな」
心配そうなキヨワを、ヤサは振り返った。
「だったら、一緒に行こうよ。君とだったらキズアトさんも怒らないだろう?」
「うん、まぁ。そうだとは思うけど」
キヨワの返答を聞かないまま、ヤサは境内の外へ行こうとする。
慌ててそれを追おうとしたキヨワだったが、ヤサの先にキズアトの姿を見て、足が止まった。ヤサも同じだったが、彼の場合はキズアトの隣にヨゴレがいたことに驚いた。これで捜す手間が省けたが、キズアトは一体どういうつもりで彼女を連れてきたのだろう。
「ヨゴレ、俺の息子とヤサがお前の力になる。そういうわけだから、頑張れよ」
キズアトはヨゴレを二匹に託し、彼は自分の定位置でもある賽銭箱の上に丸くなった。
「あなたは昨日、いた猫ですね」
「あっ、はい。初めまして」
ヨゴレは昨日見たほど、汚くはなかったし匂いもしなかった。彼女の毛並みは洗い流された灰色に近い白、石けんの香りがする。瞳は金色で、それが日を受けて輝く様は眩しいほどだった。
「キズアトに連れて行かれて洗われました」
「父さん、容赦ないから」
ヨゴレはちゃんとしていれば、普通の猫に見えた。声も昨日聞いた時よりも柔らかく、優しかった。
「あの、私は、実の息子をあなた方に捜してほしいんです」
ヨゴレによると、彼女は噂ほど奔放な性格ではなかった。引っ込み思案で異性を前にすると、赤面するほど奥手だった。そんな彼女が恋をしたのは当時、人気のあった雄猫だった。
遠くで見るだけで満足していたヨゴレの背中を押したのは、キズアトだった。彼に押されてその雄猫と恋仲になり、子が生まれた。その子供がヨゴレの捜して欲しい相手だった。
「どうして、離ればなれになってしまったんですか?」
「旦那が交通事故で亡くなってしまって、その旦那の母親がそれは厳しい猫でして、息子に会わせないばかりか、居場所すら教えて下さらないのです」
すっかり意気消沈したヨゴレは、生きる意味を無くた。捜す手がかりもなかったが、キズアトが彼女を助けた。だが、ここで問題が浮上した。
「私が愛した旦那の父親はキズアトとはライバル同士なんですが、彼が表立ってやるとその、色々と問題がありまして」
互いが管理している区域が違うこともあるが、キズアト自身が彼に恨みがあるようだった。
ヨゴレはそれでも捜し続けている。ボロボロになっても、どこかにいる息子を一目、会うために。
「分かりました。でも、手がかりがないんじゃ捜しようがないな」
「だったら、マジョに聞いて見るってのはヨゴレさんはもう、したんですよね?」
「えぇ。だけど、門前払いされてしまいました」
「マジョ?」
キヨワは頷く。
この町の猫たちから呼ばれるマジョというのは、情報屋兼占い師だった。口が堅く、信用できる性別不詳の猫。その代わり、気に入らない猫には門前払いすることで有名だとか。
「マジョのところに行ってみます。門前払いされても粘ってみます」
「君一人だと心配だから、ボクも一緒に行くよ」
「ありがとうございます」
ヨゴレは深々と二匹に頭を下げた。
*
ヨゴレとキズアトを境内に残し、二匹はマジョの所へ向かっていた。
下水道の近くの段ボール箱に、マジョがいるらしい。でも時々、マジョがいる場所が変わるともヨゴレは言っていた。
「会えるかどうかも分からないってヨゴレさんは言ってたけど、どういう意味かな?」
「マジョがいる下水道は雨が降ったりすると水かさが増すんだ。そのせいで、段ボールが流されるからかもしれない」
「なんでそんな危ないところに住んでるの!」
ヤサは、場所を知っているキヨワを先頭にして歩きながら叫んだ。その理由については、彼も知らないようだった。
大丈夫かなと心配するヤサに、キヨワは何とも言えない顔をする。しかし、今のところヨゴレの息子さんに会う術はマジョに会うしかない。
「マジョがダメだとすると、他は方法ないのかな」
「あとは、父さんのライバル関係の人に話を聞く、ことになるだろうけど、あまりやりたくないな」
キヨワがそういうのも、無理はなかった。
彼の父親とライバル関係にあるというボス猫は、世間一般で飼われている家猫たちとは飼い主の地位も猫の血統も違う。そんな身分違いだったヨゴレと雄猫の結婚は、許されなかったのだろう。
「なんか、すてきだね。ますます、がんばりたくなっちゃったよ」
「僕もそうなんだけど、父さんは話してくれないんだ。ヨゴレさんの恋仲もちょっと意外だったな」
それから二匹であれやこれやと、ヨゴレと雄猫の出会いに花を咲かせる。
やがて、マジョがいるという下水道までやってきた。そこは神社からだいぶ距離があったので、付いた時には夕方になっていた。下水道には、チェーンのかかっている金網の下から二匹はするりと入る。階段を並んで下りると、そこはトンネルになっていた。
「ここの中かな?」
「誰だい、見ない猫だね」
トンネルに声が反響して、何倍も増幅する声は地獄の底からの聞こえるようだ。やがてトンネルから出てきたのは、ボロぞうきんみたいな猫った。
「もう、なんだい。あたしは寝たいんだよ?」
気だるげな声で、大あくびをする猫は声の調子から雌猫のようだ。
一度も整えたことのない毛並み、鼻が曲がるほどの香水の匂いを纏っていた。雌猫の口には魚の骨が、楊枝のごとく突き出している。バーのママを落ちぶれさせたような猫だった。
「あなたが、マジョさん、ですか?」
「そうだよ。なんだい、あんたは見たことがないが、そっちのあんたはキズアトのところのボンボンじゃないか」
そう言うと、マジョは鈍った体を解すように伸びをする。
二匹は彼女と一定の距離を保った。
「こっ、こんにちわ!マジョさん。僕はヤサっていいます!!よろしくお願いします」
「こりゃあ、元気の良いボーヤだねぇ」
マジョは毛並みを後ろへ投げつけながら言う。
キヨワはマジョが苦手なのか、ヤサの後ろに隠れている。
「マジョさんにお願いがあるんです。ヨゴレさんの息子さんを捜して欲しいのですが」
「なんだって、ヨゴレの息子をか!」
するとマジョは、何が面白いのか笑い出した。
ヤサの髭がマジョの笑い声で、ビリビリと震える。
「なんで、あたしがそんなことしなきゃならない。そんなことしなくても、会いたきゃ向こうから会いに来るよ」
「でも、向こうだってヨゴレさんがどこにいるか分からないんじゃないでしょうか」
ヤサが詰め寄ると、マジョはそれを鼻息一つであしらった。
「なに言ってんだい。相手はヨゴレの居場所をとっくに知っているさ。会いに来ないのは相手さんが会いたくないからだよ。そっとしておきなって」
それに、とマジョはキヨワの方を見た。
「ヨゴレにも問題はあんだよ。だから、帰りな。ボーヤたち」
「帰りません!」
ヤサはマジョの行く先に、彼女の後ろへ回り込み、これ以上行かせないよう立ち止まった。
マジョは盛大なため息を付き、しばしヤサとにらみ合う。するとマジョは、顎で夕日に照らされた高いビルを指した。
「あそこにいるよ。会ってどうしようと無理だろうがね」
「ありがとうございます!」
ヤサが深々と頭を下げると、マジョはその横を通り過ぎていく。
そして。
「あんたみたいなお人好し、久々にみたよ」
ヤサを哀れむような一言を残し、マジョはトンネルの方へ戻っていった。
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