第16話:襲来

 それは間宮が学校帰り、夕方から出勤していた金曜日のことだった。工房にはライカ、店側には槇と間宮だけの静かな日だった。彼が飛びこんできたのは。

 チリリと響く美しい鐘が、早鐘はやがねのように暴れる。

「槇ィ!!」

 大きな声に、その音も掻き消されたが。

「槇、てめぇ……!」

 彼、鷺沼は怒りで顔を真っ赤にして槇に飛びかかった。カウンター越しに、槇のネクタイを掴む。

「ひっ」

 間宮が目の前の乱暴な展開に肩をすくめた。

「……鷺沼さん。どうしたんですか?」

 槇は全く動じずに彼の眼をじっと見つめ、冷静に問いかけた。余裕すら感じる。

「どうしたもこうしたもねぇよ……! 俺の妻に何を吹き込んだ!?」

 唾を飛ばしながら鷺沼が叫ぶ。

「何を……って。僕は鷺沼さんの奥さんにはお会いしてませんよ」

 槇はあくまでも冷静に、丁寧に言葉を紡いだ。そしてそれは、呪いを持って『』に変換される。鷺沼は一瞬冷静さを取り戻して、表情を緩めた。

「あいつ……此処で石を買ってから、変わっちまった」

 間宮は鷺沼夫人のことを思い出し、ぴくりとその言葉に耳を震わせた。そして「そうだ、この男だ」と心の中で呟いた。あの女性をあんなふうに痛めつけて、怯えきった獣みたいにした張本人はこの男なのだと再確認し、血液がぼっと熱を帯びる。

「こんな怪しい石の店……、アイツに何か吹き込んだに決まってる……」

 鷺沼の声が震える。そう思い込みたくて、感情を先に爆発させようとしているのが見て取れた。槇はそんな彼の揺れ動く眼球を冷静に見つめ続けた。ネクタイから手を離してくれるのを待ちながら。

「あ……」

 小さな声が零れ落ちる。

 鷺沼と槇はその声が落っこちた床を見て、ゆっくりとその震える唇に焦点を合わせた。鷺沼とは違う理由で、小さな怒りを巡らせた間宮の顔に。

「あの、ガーネットは、わ、私がお勧めしました」

 正しくは、壬鷹もだが。

「……ガーネット?」

 鷺沼は眉をひそめた。なぜなら、彼女が持って帰ってきた安物のサンキャッチャーは透明だったからだ。ガーネットのような血の色をしていない。

「それはキャンセルしたと、聞いていたぞ」

「きゃ、キャンセルなんかされていません。ちゃんと、納品しました。私……――」

「ああ、そうか」

 突然、空気が凍った気がした。

「お前か。あいつが言ってた『女の子』」

「え?」

 間宮の背筋もぞわりと凍る。鷺沼の眼は完全に座っていた。そしてその鋭い狂気の矛先は、今間違いなく自分に向いている。間宮はそれを悟り、固まってしまった。

「お前があいつをそそのかしたんだな。あいつをそそのかして、妙な自信をつけさせて……」

 鷺沼は槇のネクタイからするりと手を離し、間宮に一歩近づいた。

「鷺沼さん」

 槇がそれを制するように名を呼ぶが、止まらない。

「あいつは若い男見つけて、とうとう家を出ていっちまったんだぞ。どう責任とってくれんだよ!? あぁ!?」

 間宮はすっかり縮み上がって、ふるふると身を震わせていた。何も言い返せない。こんな理不尽で荒々しい怒気どき、大人に向けられたことなんてない。けれど。

「わ……私は」

「は!?」

 けれど、言わずにはいられなかった。

「あんなに打ちひしがれた人に、自信を持ってほしいと願ったこと、謝りたくありません……!!」

「こっの……!!!!」


 ――ああ、殴られる!


 覚悟してぎゅっと目をつむった。しかし、痛みは感じなかった。

 大きな音とともに殴られたのは、間宮を庇った槇だったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る