第3話:ゆっくりと苦しみをもって

 金曜日。それは槇のいない日だった。午後四時に店に来ると言っていたので、朝霧は店の方に顔を出し、静かにカウンターに座った。店の音楽は間宮が選んだんだろう。槇のいない日によくかかっている「ジムノペディ」だった。

「……ゆっくりと苦しみをもって。か」


 チリリン……――


 朝霧の呟きが鐘の音で掻き消され、戸が開く。ジェミィが来たのだと思い、顔を上げた朝霧だったが、入店してきたのは違う人物だった。

「いらっしゃいませ」

 すかさず間宮がその客に笑顔を投げかけ、迎え入れる。するとその女性は少しだけ狼狽うろたえ、弱々しく微笑んだ。

「あの、槇さんという方がやっているお店は、此処であっていますか」

「え? あっはい。あってます。が、本日店長はお店にはいなくて……。お約束されてたんでしょうか?」

 間宮が少し慌てると、女性はふるふると首を振り「違うんです」と言った。

「あの、うちの主人が槇さんともともと同僚とかで……、是非行って来いと言われて、お邪魔させていただいたんです。お約束していたわけではなくって、あの……すみません」

「え!? あっ、えっと、とりあえずおかけになりませんか?」

 何に謝られたのかわからず、間宮は慌てて彼女をカウンターに促した。幸いほかに客もいないので、心なしか怯えている彼女の話をちゃんと聞こうと思ったのだ。

 朝霧はそんな二人のやりとりを横目で見つつ、身を少しだけカウンターの隅に追いやった。

 ――午後四時と五分。何をしてるんだあの老婆ババアは。

 朝霧は店の時計を見やり、組んだ腕を人差し指でトントンとはじいた。

 隣では間宮と女性客のぎこちない会話が始まった。

「こ、こういった石に興味があるんですか?」

「あ、いえ。主人に言われて……。あ、興味がないわけではないんですけれど!」

「えっと、うちで扱っている石には一応それぞれ、石が持ってる、のろ……パワーと言うか見込める効果があって、他の店では買えない種類の石も多いので、もし良かったら、いくつか手に取ってみますか?」

「は、はい。あのあんまり高価じゃないもので……。此処に来たって、主人に言えるようなものがあれば」

 妙な注文に間宮はすっかり首を傾げてしまった。そして改めてこの女性の顔や仕草を見る。

 どう考えても、びくびくしていて普通ではない。彼女の長くウェーブした髪は、ナチュラルウェーブと言うにはボサボサしているし、優しそうなたれ目がちの瞳も、かすかに震えていて目が合わない。細身で小顔に見える細さも、これってもしかするとやつれているのでは? と思える不健康な印象を受ける。

 ぐわりと心に湧いた一抹いちまつの不安から、間宮はとっさに声に出してしまった。

「あの、?」

 彼女の大きな目が、ぱちぱちと瞬きをした。そしてゆっくりと、恐る恐る間宮の方を見る。

「あの、ええと違ったらすみません……。鷺沼さん、の奥さんですか?」

「……あ、は、い」

「やっぱり」と間宮は呟くと、柔らかく彼女の震える手を握った。

「あっ! え!?」

 彼女はびくりと体を揺らし、困惑した顔で間宮を見つめた。

「あの、すみません、間違ってたらすみません。もしかし……――」


。お姉さん?」


 鐘の音。午後四時十分を指す時計。唐突に現れたその男は、鷺沼夫人の耳元であでやかに笑った。

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