04 暴走

 皐月姉が目に入った瞬間、俺の中で何かが壊れた。会ったばかりで親切にしてくれた皐月姉に対して、俺は自分でも気がつかないうちに心を開いていたようだった。


 一瞬にして辺りの空気が変わった。ぽかぽかと春のような陽気を、俺の周りからじわじわと広がる冷気が侵食していく。あっという間に吐く息が白く見えるほどの気温まで下がってしまった。


[お、翼竜神くんやっと目が覚めた? 覚めちゃった?]


 戯けたようにそう言う悪魔に、俺は吐き捨てるように言う。


「皐月姉からその汚い手を離せ。」


[なんで? 離したらこいつ逃げるでしょ?]


「し、時雨、にげろ…!」


[もー、君うるさいよ? 今、僕と翼竜神くんとで話してるんだから黙ってて!]


 悪魔は幼子を叱るようにいうと、ミシミシという音をさせて皐月姉の頭を掴む力を強めた。皐月姉が痛みに呻き声をあげるのを聞いて、思わず俺は

「皐月姉!」

 と叫んだーー



 一瞬だった。気付いたときには、俺の周りは真っ暗だった。目を開いているのか閉じているのか、自分でもわからなくなる。沈黙に耐えきれず、思わず暗闇に話しかけようとした途端、目の前に小さな白い竜が現れた。突然だった。それでもその幼竜はどこか懐かしさを感じさせ、俺はぼんやりとした頭のどこかで、『これは自分のもうひとつの姿なんだ』と理解した。


 自ら発光するような神々しさを伴いながらも、その目はくるり、と愛くるしい。頭から尾の先まで生えた藍色の毛はとても艶がよく、幼竜が動く度にさらさらと靡く。


「我の力を使え」


 少年のようなソプラノボイスが、幼竜の口から確かに漏れた。不思議と違和感はなく、むしろその声には、時雨が目覚めてから初めてとも言える安心感を抱かせる何かがあった。


「代償は?」


 旧知の友と語らうように、時雨は意識して軽い声で聞く。幼竜はクツクツと笑った後、すべてを見透かすようなその澄んだ蒼の目で、言った。


「代償とな?我らの仲でそれを問うか、片割れよ。昔から決まっておろう。我が求めるのは、そなたの『時間』のみじゃと」


 もう一度可笑しそうに笑った後、幼竜は一気に笑みを引っ込めて、遠くを見るようにしてこう言った。


「代が変わるごとに我は卵の姿に戻り、そなたもまた幼子の姿に戻る。が、今回は何故か、我は幼竜、そなたは童の姿ーー。さて、誰の企みであるのかのう」


「企み……?」


 思わずそう問い返すと、竜は微笑んだ。


「そなたは考えなくとも良い。まだ記憶があまり戻ってないのであろう?毎回そうなのだ。我だけ先代の記憶を継ぎ、片割れであるはずのそなたは朧気にしか覚えてはおらぬ。……なぜなのじゃろうな」


「俺のこの記憶は、完全じゃないのか?」


「うむ。完全であったなら、我のことなど見えてはおらぬよ。我は、言うなればそなたの『道標』なのだから。それに、記憶が戻っておるなら、きっと刹那とやらのことも知っておるはずだ。以前会ったのを覚えておらぬであろう?」


 言われて初めて思い出す、新たな世でできた、『姉』の存在。


「そうだ! 皐月姉! 頼む、力を貸してくれ!」


「ふふ、やっと思い出したか。忘れたのかとひやひやしたわ。やはり、どこかで何らかの力が働いておるのだろうな」


 苦笑しながら幼竜は俺の近くへと寄ってくる。


「じっとしておれよ。術が崩れる」


 幼竜が俺の腰の辺りに巻き付き、尻尾を噛んで輪を作る。そのまま何かぶつぶつと呟き始めるのを、俺は器用だな、と半ば他人事のような感じで眺めていた。


 ふと腰に巻き付いた幼竜と目があった瞬間だった。


「ぅあ、ぐぅ……」


 刹那さんの苦しむ声で、ハッと我に帰る。

 腰に巻き付いた竜はもう見えず、代わりに守られているような、そんな気配が俺を勇気づけた。


(我の名を)


 頭の中に直接反響するような幼竜の声に従い、口から自然と出るその名を、呼ぶ。


「《レオ》」


 同時に、悪魔と刹那さんの目が驚愕に見開かれる。


『今、なにがおこっているのか』とか、『自分が何をしているのか』とか、そういうことを考えようとすると頭が霧で覆われたように霞んでしまう。

 全てをぼんやりと、浅く考えることしかできなくて、なんだか自分が自分じゃなくなってしまったみたいだ。それでも感覚はすごく鋭くて、さっきよりも凄く遠くまで見えるし、後ろの森の方から何人かこっちに走ってきている気配までわかる。目の前の、女を抱えた悪魔がなにか喚いている。声は聞こえるのに内容が理解できない。おかしな感覚だ、と思わずフフッと笑みが漏れる。


 そこで俺の記憶はプツリと途切れた。次に気がついたとき、目に入ったのは見知らぬ天井だった。



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