ふたりの夜明け[後]
一瞬。ほんの一瞬のことだった、錯覚しかけたのは。
第三者が誰も絡んでこないふたりだけの甘い世界に一瞬、戻れた気がしたのだ。
和佐からのひたむきな愛情を一心にこの身に受けていた、あの頃に。
「由麻」
けれど、耳元で名前をささやかれたとき、真先くんの声が鮮やかに蘇った。
由麻さん。
息だけでせつなくわたしを呼ぶ、あの声。
俺は、兄貴とは違う。
他の女に行ったりしない。泣かせたりしない。
「やめてっ」
今にも唇を重ねようとしていた和佐の肩を、わたしは渾身の力をこめて押し返した。
だめ。真先くんと重ねた唇は、もう、誰とも。
和佐は一瞬ひるんだ顔をして、それでも再びわたしを押し倒す。片手で肩を押さえつけ、服の中に手を入れてくる。痛いくらいに胸をつかむ。
「嫌だってば!」
わたしはほとんど絶叫した。
前にも、こんなことがあった。心を閉ざしたわたしを、バスルームでむりやり和佐は抱いた。ずぶ濡れになりながら。
あのとき和佐は泣いていたけれど、でも真先くんの流した涙とは、質が違う。
この
「デートレイプって言葉、知ってる!?」
のしかかられながら、必死で叫んだ。和佐の手が止まった。
目を見開いて硬直している和佐にもう押し倒されないよう、その身体の下からすばやく抜け出し、ソファーから立ち上がった。
「もう、そういうのは、やめて」
肩で息をしながら、言った。
「……なんでだよ」
和佐は顔をぐしゃぐしゃに歪ませて叫ぶ。
「許すって言ってんじゃん! 弟と惹かれ合ったなんて死ぬほど屈辱だけど、今なら忘れてやるからって。俺がどれほどの覚悟で言ってるかわかる!? プライド全部差し出してるんだよ!?」
「許してほしいわけじゃないっ」
苦い涙で視界が歪む。
「わたしは、和佐とは違う。アサミとわたしを器用に両立できるようなあなたとは違う。気づいてしまったらもう、真先くんしか見えない」
お願い、わかって。許さなくてもいいから。祈るように、言葉を継ぐ。
「先のことなんてわからないけど、信じたいから信じるのっ」
「……あいつ、モテるよ。なんつってもまだ若いし。いつまで一途でいると思う?」
「和佐とは違う!」
ほんの一瞬でも気持ちが揺らいだ自分を殴りたかった。
ひたすら自分を抑制し続けてきた真先くんは、絶望を知っている真先くんは、あんな清らかな涙をこぼす真先くんは、きっとあんな裏切り方はしない。
「真先くんと和佐は、全然違うの。顔は似てても、別個の人間なの。あなたと一緒にしないでっ」
壁に背中がつくまで後退して、わたしは叫んだ。
和佐は無言でわたしを見つめた。
そして、そのままソファーにうつぶせて
「あいつの、どこが、そんなに、いいの」
子どものように泣きじゃくりながら和佐はたずねる。その悲痛な声に、胸が潰れそうになる。
「わかるように、言ってよ。ねえ、言ってよ、由麻」
「……和佐はさ」
もう襲ってこないと確信して、わたしはソファの端にそっと腰を下ろす。
「わたしが、アサミのどこが好き? って訊いたとき、言ったよね。聴いたことのない音楽が聴こえてくるって」
激しい泣き声が、少しだけ小さくなる。
「わたしはね、ちょっと違うんだ」
ひっく。ひっく。
「和佐に見つけてもらえたときは、何か大きな力で
ひっく。ひっく。しゃくりあげながら、和佐はゆっくりと身を起こした。前髪が乱れている。
「ちゃんと話したことなかったけどね。わたし、本当にそれまで、だめ人間っていうか、クズ人間だったの。クズだよ」
「……なんで?」
真っ赤に充血した目で、和佐はたずねる。
「荒れてたの、わたし。人間関係も生活も。大学入って、いろいろうまくいかないことが続いて、ヤケになって夜遊びして、いろんな人と関係したよ。行きずりの人とも、友達の好きな人とも、……一度だけだけど、家庭のある人とも」
やっと言えた。その安堵で、わたしは薄くほほえむ。和佐は絶句している。
「ひどいでしょう。空っぽだったの。虚無だったの。ボランティア始めたのだって最初は慈善の心なんかじゃなくて、単に就活で有利な経験を積むためだよ」
和佐の口が、え、と言うように開かれた。
「幻滅したでしょ? まあ、そのおかげで和佐と出逢えたんだけどさ」
もう、何も隠すことはない。すべてをさらけ出した身軽さに、わたしはくすくすと笑う。
「きっと天罰だったのかもね、アサミのことは」
「天罰……」
和佐は呆然と
「ま、いいや。だからね、そんなわたしに和佐は最初、まぶしすぎる人だった。好きになっていいのかなって迷ったくらいだったんだ。和佐はわたしを真人間に戻してくれたの。本当に感謝してる」
窓のカーテンを見つめながら、わたしは語り続けた。一緒に住み始めるときふたりで選んだ、マリンカラーのストライプのカーテン。
「だから、なんていうかずっと、どこか遠慮っていうか、引け目があった気がするの。和佐はわたしにとって……宗教って言ったら変だけど、そのくらい強大な、絶対的な存在だったの。対等ではなかった」
「なんで」
和佐が、喉の奥からかすれた声を出す。いつのまにか、ソファーの上で正座している。
「対等だったでしょ。俺は由麻を下に見たことなんてないよ」
「うん、わたしが勝手に見上げてるように感じてただけだから。責めてるんじゃないよ。わたしの問題」
わたしはまたカーテンに視線を戻す。この窓の奥、夜の向こうに真先くんはいるのだ。ちゃんと夕食を食べただろうか。チーズケーキは冷蔵庫に入れてくれただろうか。
「真先くんは」
その名前を口にするだけで、胸の奥が甘く
「なんていうか、目線が同じなんだ」
和佐の顔が引きつった。
「たとえばさ」
和佐にちゃんと響いてくれる表現を探す。真先くんの心の声が聞こえ始めたときの、あの透明な気持ちを思い起こす。
「宇宙を漂う原子が」
「……原子?」
「うん。孤独な原子が、結合すべき原子を見つけたみたいな気持ちなんだ、今」
和佐は押し黙った。
わたしも黙っていた。
時計の秒針の音が、いやに耳についた。
日付が変わり、バレンタインデーが終わる。結婚して、夫婦になるかもしれなかった日が。
長い長い沈黙の後で、和佐が口を開いた。
「……かなわないよ」
わたしは、ゆっくりと和佐の顔を見た。
「もう、わかったよ。さよなら、由麻」
もう何もしないから、最後に抱きしめさせて。
和佐に懇願されて、布団の中で横たわり、背中から抱きしめられていた。
その体勢のまま、思い出話をたくさんたくさんした。心からリラックスして、穏やかな、
9年と半年と半月。
その長い月日を思って、わたしは少しだけ涙する。きっと遠からず、回顧して感傷にとらわれる日が来るだろう。でも、それだけだ。
話は尽きなかった。心身ともに疲れきっていたのに、和佐と恋人として過ごす最後の時間だと思うと眠る気になれなかった。いくつものエピソードを掘り返し、反芻し、懐かしさと一抹の淋しさとを味わった。
途中、喉の渇きを覚えてキッチンへ立った。
冷蔵庫を開けると、ウィルキンソンの炭酸水のPETボトルが目に入った。何も考えずにそれをグラスに注いで飲んだ。やっぱり、おいしくもまずくもなかった。
夜が、しらじらと明けてゆく。
いつもの起床時間まであと1時間半ほどのところで、そろそろ寝るね、と言いかけたとき、
「俺、ハイチに行こうかな」
和佐がぽつんと言った。
「ハイチ?」
「うん。……アサミに誘われてたんだ」
いつのまに。呆れはしたけれど、もうその名前がわたしの心にさざ波を立てることはなかった。
「何しに行くの? ボランティア?」
「うん、人道支援の募集が定期的にあってね。就職するからそれどころじゃないって思ってたんだけど……」
「長期になるの?」
「たぶんね。
「そっか」
少し淋しいし、心配だ。きっと治安の悪さも衛生環境も貧困も、予想を上回る厳しい状況なのだろう。
けれど、ハイチでいきいきと立ち働く和佐はきっと、やりがいにあふれ魅力的に輝くはずだ。
それに、どんなプログラムかは知らないが、もしアサミが現地であの褐色の肌の男の子に会えるのなら、それは素敵なことに思えた。
「ザッシュはどうするの?」
「それなんだよね。実家ででも預かってもらうかな」
「え。じゃあ、もしわたしが幕張に行ったら、ザッシュに会えちゃうの?」
「そういうことになるかもね。まだ全然わかんないけど」
複雑な気持ちがした。和佐と別れても、完全に関わりを断つことはきっと、不可能なのだということ。和佐とも、アサミとも、ザッシュとも。
けれど、彼らに再会するということは、わたしはひとりではないということを意味する。
「アサミと、ちゃんと付き合わないの?」
思いきって、言ってみる。
最後まで、アサミとわたしは名前を呼び合うことはなかったな。そんなことを不意に思いながら。
返事がないので、わたしはくるりと和佐の方に向き直った。和佐はわたしを抱え直し、後頭部をやさしく撫でた。
「……考える。中途半端は、嫌だから」
「愛してるんでしょ? この間、否定しなかったじゃない」
感情をすっかり取り払った文字通りの意味だけで、わたしは訊いた。
「んー……」
和佐は、わたしの耳元に顔を埋める。
「広義に解釈すれば、愛してるってことになると思う」
「難しく考えない方がいいよ」
「うーん……由麻を愛してたのと、また違う感覚だからなあ」
あ。
今、ようやく和佐が愛を過去形にした。
「でも、人生に必要な人なんでしょ」
「うん」
その問いには
「たぶん……ずっと寄り添っていきたいとは思ってる」
「じゃあ、もう恋人ってことでいいじゃない」
きっと和佐も、自分の気持ちの大きさに気づいていない部分があるのかもしれない。アサミの笑顔を確かめるように見ていた、あの表情を思う。
「いいのかな」
「いいんだよ」
「そうかあ……検討するよ」
「それがいいよ」
和佐にアサミがいてくれてよかった。わたしと切り離される和佐が、ひとりじゃなくてよかった。心からそう思った。
「じゃあ、そろそろ寝るね」
「……うん、俺も」
「おやすみ」
「おやすみ」
そのおやすみは、さよならと同義だった。
瞼を閉じた途端に深い眠りに引きこまれ、わたしは和佐の最後の温もりを感じながら夢も見ずに眠った。
わたしたちの恋人としての長い時間は、こうして静かに終わった。
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