ふたりの夜明け[前]

 長い夜になりそうだった。

 自宅で落ち着いて話そうということになり、マクドナルドの入った駅ビルを出て、冬の夜道を並んで歩く。手はつながない。

 明日の朝食の材料がないことを思いだして、スーパーに立ち寄り、卵や納豆や魚を選ぶ。牛乳やお菓子、食器用洗剤もかごに入れる。

 こんなときにもやっぱり「生活」をしてしまう自分たちが、なんだかおかしかった。

 きっとあと数時間で撤去されるであろうバレンタインコーナーに足を止めている女性たちがいた。

 和佐が持っているかごの中に、ジンジャーエールのPETボトルを滑りこませた。和佐が一瞬何か言いたげな顔をしたけれど、気づかないふりをした。

 レジに並びながら、家を出る前から電源を切りっぱなしにしていたスマートフォンを鞄の中でそっと立ち上げる。

 小平こだいら真先まさきからの不在着信が11件、そしてLINEが2件。

「生きてたら、既読にして」

 それと、

「決着がついたら教えて。いつまででも待ってるから」

だった。


 帰宅して、まずは交代で入浴した。

 朝からずっと気を張りっぱなしだったので、身体が温まってゆくとともにどっと疲れを意識した。でも、神経はまだたかぶっている。

 このまま眠ってしまうわけにはいかない。和佐との長い年月が、ようやく終わろうとしているのだから。――和佐に「納得」してもらうことができれば、の話だけれど。

 和佐のシャワー音を聞きながら、ベランダを確認する。干しっぱなしだったロンジーが夜風にはためいていた。ほっとして取りこみ、クローゼットの中のわたし用の引き出しの奥深くに、大事にかくまった。

 誕生日にアルブルで撮った小さなポラロイド写真が、居間のコルクボードから剥がれて床に落ちている。

 わたしはもう、それを拾って貼り直すことはしなかった。


 身体が触れ合わない距離をとりながら、ソファーに並んで座った。

 ローテーブルの上で、紅茶が湯気を立てている。和佐の退職予定を知った同僚のひとりにもらったのだという、香り高いスリランカの茶葉だ。

「由麻にチョコをもらえないバレンタインは、初めてだったな」

 大事な話し合いの冒頭は、和佐が苦笑いしながら口火を切った。

 わたしはそれには応えず、

「今日ってアサミの誕生日だったんじゃないの? 逢わなくてよかったの?」

と訊いた。

「……チョコ渡したいって言われたけどね。それどころじゃなかったから」

 和佐は再びボールをこちらによこす。

 自分でアサミの名前を出しておきながら、わたしは強い苛立ちを覚えた。

「ずいぶんさらっと言うんだね」

 ティーカップをテーブルに置いて、わたしは和佐の顔を見た。

「いつのまにかすっかり元通りじゃん。もう連絡取らないって言って、いつのまにか普通に取ってるし。わたしを同伴しなきゃ逢わないって約束も、どこに行ったの? わたしが何も言わないからって、好き放題だよね」

 穏やかに話そうと決めていたのに、抑えこんでいた感情がマグマのように突き上げてくる。

「そうやってすっかりアサミの存在を日常の中に取りこんじゃって、わたしとの約束も平気で破って、嵐の中を駆けつけてってさ。そんな人とはもう」

 一瞬、言葉を切った。

 こちらを見つめる和佐の目が、野犬のようにぎらぎらと光っている。

「……もう、一緒にいられない」

 震える声で、でもきっぱりと言う。

 和佐が唾を飲み下す音が聞こえた。

「和佐の何を信じたらいいのか、とっくにわからなくなってた。最近になって、なんでそんなに薄情なのって思うこととか、とても理解できないことがさらに増えた。……それなのになかなか決断できなかったのは、好きな人と結婚したいっていう昔からの夢にしがみついてたからかもしれない」

 和佐はわたしから目を逸らさない。わたしも逸らさない。

「これについてはわたしの甘さっていうか、心の弱さゆえだから、謝る。ごめんなさい」

 頭を下げた。ストレートにしたばかりの髪が、さらりと肩からすべり落ちる。

「もっと早く決断できていれば、こんなにお互いぼろぼろに傷つかなくて済んだかもしれないよね」

 薄く笑いを浮かべてみたけれど、和佐の唇は真一文字に結ばれたままだ。心なしか、その唇がすこしわなないている。目が潤み始めている。

「もちろん、ただ結婚したいだけじゃなくて、和佐のこと好きだったから離れられなかった。出逢った日からずっとずっと好きだったよ」

 ああ。

 あの夏の日からようやく告げる愛の言葉が、過去形になってしまうなんて。

「だから、もしかしたら許せるかもって思ったりもした。アサミのことが過去になって、何事もなかったように笑える日が来るかもしれないって必死で想像して、自分を支えてた。でも、もう無理なの。おしまいにする」

 苦しみ続けたこの半年間の様々なシーンが、そしてそれまでの幸せだった和佐との日々が、脳裏に浮かんでは消えていった。

「わたしのこと、ずっと近くで守ってくれて、愛してくれて、本当にありがとう」

 涙が出てきた。

 こんなの、自分の言葉に酔っているだけだ。そう思うのに、熱い涙は次々に頬を伝い始める。

「和佐がいなかったらわたし、だめになってた……」

「由麻」

 和佐が口を開いた。

「言ったよね。俺、由麻だけが永続的に好きなんだって。ただ、アサミは……いつのまにか、自分の人生に必要な人になってしまったけど」

 和佐はティーカップから紅茶を一口すすり飲み、かしゃん、と少し乱暴にソーサーに戻した。

「それを受け入れてくれっていうのは都合良すぎるってわかってるけどさ。俺たちこんなに愛し合ってきたんだからさ」

「だから、わたしはもう……愛してないんだってば」

 声が、震える。

「悲しいんだから、言わせないでよ」

「真先のせいかよ!」

 突然、和佐が怒鳴った。その声が壁にかすかに反響する。

「あいつがいなかったら、まだ迷っててくれたのかよ」

「お願い、和佐。聞いて」

 突然の激昂に動じず、わたしはタクシーを降りる直前からずっと考え続けていたことを言葉にする。

「アサミのことと真先くんのことは、たしかに関係なくないよね、タイミング的にも。でも、もしアサミのことがなかったとしても、あたしやっぱりもしかしたら、人生のどこかで気づいてたかもしれない。気づいて苦しんでたかもしれないって思う」

「……そんなに好きなのかよ」

 半ば軽蔑するような口調で、和佐は言う。

「いつのまにか俺だけじゃなくあいつも好きで、俺がアサミと付き合ったりしたから最終的に俺への気持ちが死んで、そっちが残ったってことかよ」

「違わないけど、全然違う気がする」

 そんな単純な言葉で説明できるような話ではないのに、どうして伝わらないのだろう。熱い涙が頬で冷えて、べたついていた。

「なんだよそれ」

 吐き捨てるように和佐は言った。

 失望で、目の前が暗くなる。

 お願い、頼むからこれ以上幻滅させないで。このデリケートな感情を踏みにじらないで。

「……真先はさ、俺の真似してるだけだよ」

 いくらか穏やかさを取り戻して、でもたっぷりと毒を含んだ口調で、和佐は言った。気づけば全身でこちらを向いている。わたしがいつかホームセンターで買ってきた、上下セットのチャコールグレーの部屋着を着た和佐。

「なんで俺、付き合って3年も経つまであいつと会わせなかったかわかる?」

 今日の和佐は、わたしを試すようなことばかり言う。

「……真先くんが成人してお酒飲めるようになったら会わせたいって、言われてた気がする」

「ほんとは違うんだ」

 和佐はあっさり否定した。

「あいつさ、子どもの頃から俺の真似ばっかりするんだよ。俺のもの欲しがってばっかりなんだよ。おもちゃも文房具も、あと食器とか自転車とかランドセルとかもさ、どうしても俺のものが良く見えるみたいでさ。兄ちゃんと同じのにしろって親にねだってさ」

 和佐は苛立たしそうに後頭部をわしゃわしゃと掻いた。

「高校だって俺と同じとこ入ってさ。まあ、そういうとこがかわいくもあったんだけど」

 こんなときなのに高校生の真先くんを想像してしまい、わたしは胸の内で身もだえしそうになった。いかれてる、と自分で思った。

「だからさ、由麻だけは好きになられたらやばいと思ったんだ。俺が最初に彼女できた頃はあいつはまだ中坊のガキだったけど、由麻と付き合い始めたときは17だったしさ」

 内情を吐露する和佐は、気づけばまた自分が傷つけられたような表情をしている。こんな顔をこの半年間、何度見せられてきただろう。

「けど、その頃からあいつもいっちょまえに彼女ができたり別れたりし始めたからさ、さすがにもうそんな心配は杞憂きゆうかと思ったんだけど」

 ふーーーーっ。

 和佐は深呼吸のような溜息をついた。

「……油断した。なんだかんだで俺、あいつには甘いんだ。義理の姉さんになる人だったら会ってみたいとか言われて、そろそろ大丈夫だろうって思っちゃったんだよな。そのとき、あいつにも彼女いたし。なのに」

 初めて会った日の真先くんが、まぶたの裏にありありと蘇った。

 黒髪の今と違って、ココア色に髪を染めていた。色の抜けたライブTシャツを着ていた。二十歳になった記念にインドに行ってみたんすよ、と言っていた。お互い飲めるクチとわかって、さんざんマッコリを飲んで、喋って、笑った。

「そのときの彼女と速攻別れて、6年半も彼女作らないとか、普通じゃねーよな」

「……真先くんだって、普通なんか目指してないと思うよ」

 真先くんの痛みの日々に思いを馳せながら、わたしは小さな声で言う。

「俺のものだから、良く見えるんだよ。一対一になったら違うかもしれないよ? 悪いけど」

 その言葉は、胸の深いところをぐさりと刺した。

 真先くんと、もし――結ばれたとして、もしかしたらわたしはまたいつか、こんなふうにめちゃめちゃに傷つく日を迎えることになるのだろうか。

「男なんてみんな同じだよ。俺でさえアサミのことがいまだに自分で信じられないんだからさ」

 胸の中に、黒いしみのような不安が広がってゆく。

 手に入れて、また失うのだろうか。また、絶望を味わうことになるのだろうか。そのとき、自分は耐えられるのだろうか――。


 わたしの揺らぎを読み取ったように、和佐が距離を詰めてきた。

「由麻」

 大好きだった声で、わたしを甘く呼ぶ。

「まだ、引き返せるよ。大丈夫」

 強い力で抱きすくめられ、そのままソファーに押し倒された。

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