白い声

 短く、深い眠りを得た。

 1時間と少ししか眠っていないのに、丸1日くらい眠ったような気分だった。

 目覚めたら、わたしはもう和佐の恋人ではなくなっていた。


「更新料、無駄になっちゃったね」

 納豆を練り混ぜる和佐に、チーズトーストをかじりながら笑いかける。

「香辛料……?」

「うん、部屋のね」

「ああ、更新料」

 和佐は笑った。意味の取り違いが起こったことを察して、わたしも笑った。

 無駄になったのが部屋の更新料くらいで済んだのは幸いだったのではないだろうか。挙式会場の予約や結婚指輪の購入が発生していたら、もっとずっと大変だった。

 あ……、婚約指輪。あとで、和佐に返さないと。これまでにもらったアクセサリーの類はどうしようか。

 ひとりで現実的な思考をめぐらせていると、納豆の糸を光らせながら和佐が言った。

「俺、たぶんやっぱりハイチに行くよ」

「うん、それがいいよ」

 わたしが彼にしてあげられる最後のことは、背中を押してあげることだろう。

「部屋のこととかは、まあ、これから徐々に整理しよう」

「徐々にね」

「いろいろ片付くまで、同居人としてひとつよろしく」

 ふっきれた和佐の笑顔はまぶしかった。

 最後に見せたわたしへの強い執着は、つまるところただの意地やプライドなんじゃないかと昨夜はちらりと思いもしたけれど、その腫れたまぶたがたしかに存在した彼の愛を証明しているようで、胸の奥がじんと熱くなった。

 この人を、好きでよかった。


 新しい朝の光を浴びながら会社に向かう。

 電車の中で、真先くんにようやくLINEを打った。

「決着、つきました」

 少し考えて、言葉を選ぶ。

「夜、電話したいので、落ち着いたら教えてください。移動は飛行機かな? 気をつけてね」

 スマートフォンを閉じる前に、アサミのTwitterを開いた。本当にこれが最後と思い定めて。

「あさみん」の名前の横には鍵のマークがあり、非公開設定になっていた。

 わたしは心から安堵して、スマホを鞄にしまった。

 コンビニに寄ってジンジャーエールを買い、たくさんの煙突や配管、ダクトやガスタンクを見ながらバスに揺られる。

 会社に着いてスマートフォンをチェックすると、

「よかった。こちらは無事。夜、電話するから待ってて」

と返信が来ていた。


 気もそぞろに、業務をこなした。

 定時を迎える1時間前に、わたしの机の足元で鞄が振動した。

 そっとスマートフォンを取りだし、両手のひらで包みこむように持つ。

「初日の研修、終わりました。仕事終わったら教えてください」

 どうしよう。これだけでもう、心臓がもたない。

 画面を閉じられないでいると、続けて

「すごい雪。めっちゃ寒い」

 というメッセージと、雪景色の写真が届いた。


 終業の鐘が鳴る直前にPCをシャットダウンし、鐘の音を聴きながらダッシュした。

 エレベーターを待ちきれず、階段を駆け下りる。

「こらっ、不安全行動」

 上ってくる人に怒られた。

「すみませ……あ」

「あ」

 志賀さんだった。

「ごめんなさい、見逃してください」

 そのままさらに駆け下り、踊り場で志賀さんを見上げながら叫ぶ。

「いいけど、これだけ教えて。首尾よくいったの?」

 手すりから顔をのぞかせてわたしを見下ろし、志賀さんが笑う。

「"Almost"ってところです!」

「そっか、がんばれ。転ぶなよ」

 ひらひらと手を振る志賀さんに笑顔を返して、わたしはまた駆けだした。


 いつものバスには乗らず、工業団地をめちゃめちゃに歩き回った。スマートフォンを固く握りしめたまま。

 なるべく寒くて、静かな場所を探した。

 雪国にいる真先くんと、少しでも近い環境に身を置いて話したかった。

 なんとなく真先くんの会社の方向に足を向けると、公園のような広い草地があった。わたしはその中にざくざくと踏みってベンチに腰を下ろした。

 呼吸を整え、電話をかける。

「……はい」

 2コール目で出てくれた。

 昨日駐車場で言葉を交わしたときから24時間しか経っていないのに、ずいぶん遠くへ行ってしまった気がした。

「あの」

「はい」

「話せますか」

「はい、あの、うん」

 いつも飄々ひょうひょうとして軽妙に会話する真先くんが緊張しているのが電話越しに伝わってきて、わたしも声が上ずってしまう。

「えっとあの、長距離移動と研修、お疲れさま」

「あ、ありがとう。そちらこそ、あの、お疲れさまです」

 ぎこちなさに、お互い吹きだしてしまう。やっと緊張がほぐれた。

「雪、すごい?」

「まじすごい。どさどさ降ってる。さすが日本海側の冬って感じ」

 真先くんの声の背後から、雪の気配がした。

「そんなに? 帰り、飛行機飛ぶかな。ってか、飛行機なんだよね?」

「うん、飛行機。落ちないでくれたらいいけど」

 その声までが、雪のように真っ白に感じられる。鼓膜に降り積もる、白い声。

「今、どこで話してるの?」

「寺」

「お寺?」

「うん。思ったより早く終わったから、軽く観光気分で来てみた。巨石信仰の珍しい寺みたい。おもしろいよ」

 ひとりで雪を踏み分けながら寺院を歩く真先くんの姿が目に浮かんだ。

「へえ……いいな。でも、寒くないの?」

「寒いけど、なんか落ち着く。なんとなくネパールを思いだす」

「ネパール?」

「うん、ネパールの寺院に雰囲気が似てるとこがあって」

「あー……、あのとき1ヶ月くらい帰ってこないから心配したんだった」

「ははは。だって、修行僧になろうと思ったんだもん。由麻さんがあんなことするから」

「え」

 あんなこと? と訊き返そうとして、瞬時に理解した。あのタイミングだったんだ。内モンゴルから戻ってきたと思ったら、すぐに今度はネパールへってしまったのだった。

「わたしのせいだったのか……うわあ」

「そうだよ。でも、欲を捨て去るなんて無理だった。どうしても好きだから」

 突然の直球に、心臓がずきんと鳴る。

 この半年、何度も心臓の痛む思いをしてきた。でも今のは、かぎりなく甘やかな痛みだった。

「……チーズケーキ、全部食べたよ」

「えっ……え、ワンホール?」

「うん。晩飯それで済んだ。めちゃめちゃうまかった。ほんとにありがとう」

「うそ……嬉しい」

 わたしの気持ち、伝わった? そうたずねたいけれど、あまりに陳腐な表現な気がして言いよどむ。

 視界の隅で、バス通りをバスが走ってゆく。

「あと、髪かわいかった。まっすぐなの」

「え、う」

「初めて会った頃みたいでどきどきした」

「そ……」

「でも、ふわふわも好き」

「うん」

「全部好き」

「……うん」

 涙が出てきた。もう、奥歯を噛んでこらえなくてもいい涙が。

 すん、と鼻を鳴らしたきり、胸がいっぱいなわたしは黙ってしまう。電話越しに、しんしんと雪の気配。

「……仕事、どう? 大変?」

「大変は大変だけど、楽しいよ。めっちゃホワイト企業だし、みんないい人だし」

「よかった……」

 真先くんを取り巻く環境が常に良いものであるよう、わたしは一生祈り続けるだろう。

「でも今日は研修どころじゃなかった。煩悩でいっぱいで全然頭に入ってこないよ。どうしてくれるのさ」

 それはわたしも同じだった。昨日のことを、仕事中にいったい何度脳内で再生したことか。

「……あのね」

「うん」

「和佐とは、ちゃんと終わらせました」

「……よかった」

 息だけで、真先くんが言う。彼の吐きだす白い息が見えるような気がした。

「詳しいことは、帰ってきたら話すね」

 今、流れでアサミの名前を出したりしたくなかった。それに、それよりも早く言わなくてはならないことがある。

「……最後、なんて言って兄貴を諦めさせたの?」

「それは」

 言おうとして、ためらった。「結合」なんて、よくよく考えたら恥ずかしい意味になり得てしまう気がして。

「……理系の人には理系の表現でと思って、ちょっと。わたしの文系コンプレックスの裏返しというか」

「えー、教えてよ」

「や、あの、恥ずかしいの」

「教えて、お願い」

 仕方なく、わたしはその前のくだりからかいつまんで話す。顔から火が出そうだ。そう言えばさっきから、まるで寒さを感じない。

 聞き終えた真先くんが、「だあっ」というような声を上げた。

「やばい。……嬉しさが致死量」

「致死量って」

 照れまくりながら、わたしは笑う。あたりがすっかり闇に包まれる。ああ、昨日の今頃は。考えると、身体の奥が熱くなる。

 真先くんが、んんっ、と喉を整えてから言った。

「えー……、口説いてもいいですか」

 脳が甘く痺れる。冷えた指先で、スマートフォンを握り直す。

「……お願いします」

「一緒に生きよう」

 真先くんは言った。その言葉は、わたしの胸の奥にまっすぐに差しこんだ。

「言ったけど、俺は兄貴とは違うから。絶対気持ち変わらないし、他人の子どもの世話じゃなくて自分たちの子どもを産み育てたい」

 身体の末端まで、多幸感が駆け抜けてゆく。表面張力で保たれていた涙の粒がぼたりと膝に落ちて、ウールのコートに染みこんでゆく。

「由麻さんの親はびっくりするかもしんないけど、うちの親だったら心配ないよ。うち、ちょっと特殊だから」

「うん、和佐に聞いた」

「そっか、言ったんだ。……まあでも何つっても兄貴の弟だし、もしどうしても由麻さんが世間の圧に耐えられないなんてことがあったら、世界のどこにでも行こう。ふたりとも英語できるからどうにでもなるし、うちの会社世界中に拠点あるし」

「……あの、真先くん」

「はい」

「好き」

 やっと、やっと、言えた。

「……………」

「あの……」

「あーーーーーーーーーーー、キスしてえ」

 わたしは笑った。コートの袖で涙を拭い、ぐしゃぐしゃの顔で。

「もう、遠慮しないからね。兄貴と千回セックスしたんなら、俺とは一万回すればいいから」

「ちょっ……一万回?」

 ばかみたいに復唱してしまう。そして、うっかり想像して頭が爆発しそうになる。

「うん、百万回って言うとちょっと嘘くさいでしょ。だから現実的な数字で」

「現実的じゃないよ!」

「ううん、するのっ」

「もう」

 目の前の草地を人が横切ってゆくのも構わず、わたしは笑った。

 ふと、和佐に昨夜投げつけられた言葉が蘇る。

「でも、あの……」

「なに?」

「ほんとに飽きない? いつか、わたしのこと」

 ぶはっ。真先くんが笑った。その白い息が、通話口から流れてくる気がした。

「笑わないで」

「や、ごめん」

 真先くんは笑いながら、雪のような声で言った。

「まあ、百年くらいは飽きないんじゃない?」

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