心のままに[後]

 会えたらすぐに言おうと思っていた言葉があったのに、顔を見た瞬間に胸がいっぱいになってしまい、わたしはただ真先くんを見つめることしかできなかった。

「……なんで、いるのさ」

 ぽかんとした顔のままで、真先くんが言う。

「バレンタインだから、来たの」

 やっと、言葉を絞りだした。

「……へえ、義理チョコ持ってきたの?」

「義理じゃないんだ」

 真先くんは、さらに目を見開いた。

「義理じゃないの」

 その目を見つめて、もう一度言った。

 夕方から夜の冷たい空気に入れ替わる。少し風が出てきて、わたしのコートとスカートの裾を揺らしてゆく。

「チーズケーキ作ったから」

「えっ」

「あとこれ、小説渡したくて」

 束の間言葉をなくしていた真先くんは急にはっとした顔になり、わたしの手提げ袋をふたつとも奪い取った。

「ちょっ、こんな重いの持って何やってんの。どんだけ探したの。連絡くれれば……」

「どうしても会いたかったから。今日」

 勢いがついて、なんだか怒ったような口調になった。

 また風が吹いて、わたしの髪が顔にかかる。それを払いのけもせずに、わたしは真先くんを見つめ続けた。

「そうなんだ」

 放心したように、真先くんはつぶやいた。

 無言で見つめあうわたしたちを、駐車場に来た他の従業員たちがじろじろ見ながら車に乗りこんでゆく。

 真先くんはおもむろにベルトから車の鍵を外してドアロックを解除し、助手席のドアを開けながら

「乗って」

と促した。

「うん」

 乗りこもうとして、

「あ、でもこれ返してこなきゃ」

と来客用バッヂを指した。

「そっか。じゃあ、あそこのバス停のとこに車回しとくから。わかるよね」

「うん、わかる。行ってて」

 手提げ袋を引き取られて身軽になったわたしは、守衛室へ向かうべく身をひるがえした。

 かつん。かつん。

 パンプスのヒールの音が、自分の決意を示すようにアスファルトに響き渡った。


 車の中では、終始無言だった。

 でもそれは、雄弁な沈黙だった。ぴりぴりとした熱が、運転席の真先くんからもひっきりなしに伝わってきたから。

 何か一言でも発したら、ふたりの間にはちきれそうに膨らんだ何かが音を立ててはじけてしまいそうで、口を開くことができなかった。

 夜景が流れ去ってゆく。

 今日はカーラジオではなく、真先くんがスマートフォンでリスト編集した曲たちが流れ続けていた。

 そのすべての曲を知っていた。だって、わたしが真先くんに勧めたものばかりだったから。


 無言で車を降り、無言でマンションの3階まで階段を上がる。

 チーズケーキと文庫本が入ったそれぞれの袋の持ち手は、真先くんの両手にしっかりと握られている。

 久しぶりに訪れる、真先くんの部屋。

 最後に来たのは、あの内モンゴルのお酒を振る舞ってもらった日だ。2年、いや、3年前の夏。

 もしかしたらあのとき以降、和佐はこの部屋での飲み会中止を真先くんに言い渡していたのかもしれない。

 ちゃりちゃりと金属音がして、真先くんがドアの鍵を開けた。

 促されて、ぐんと大きく開かれた扉の奥へ足を踏み入れる。

 懐かしい、清潔な部屋。微かにチャンダン香の香りがする。

 出張用と思われるボストンバッグが、口を開けたまま靴棚の近くに置いてあった。

 真先くんが内側から施錠する、ちゃっ、という音が暗闇の中に響く。

 靴を脱いで顔を上げた瞬間、抱きしめられた。

 頭を抱えられ、唇が重ねられる。

 身体中を電気が走り抜けるような感覚が襲う。

 抱き合いながらもつれ合うように床に転がり、むさぼるようなキスを繰り返した。

 鼓動がこれ以上ないほど速く打ち、冷えきった手足の末端まで熱が駆けめぐってゆく。

 真先くんは細かく震える指先でわたしの顔のパーツをひとつひとつ確かめるように指で触れ、頬を包み、また首を強くかきいだいた。

 束の間見つめ合い、深く深く口づけられて、息が乱れ、また口づける。

 ――――ずっと、ずっと、こうしたかった。

 あの不意打ちのキスを受けてから、いったい何度わたしはそれを思い返し、その続きを心の奥底で願っていたことだろう。和佐に激しく抱かれている間も、きっと。

 ぱたっ。

 頬に水滴が落ちてきた。

 ぱたっ、ぱたぱたっ。

 大粒の涙だった。真先くんが泣くところを、わたしは初めて見た。

「どんだけ、どんだけ好きだったと思う」

 半分かすれたぐしゃぐしゃの泣き声で、彼は言った。

「どんだけ絶望してたと思う」

「……ごめんね」

 胸が詰まって、そう応えるのがせいいっぱいだった。

 あなたの気持ちにも、自分の気持ちにも、気づくのがこんなに遅くなって、ごめんね。

 向き合うのがこんなに遅くなって、ごめんね。

 無自覚に、いっぱいいっぱい傷つけて、ごめんね。

 わたしの目からも、言葉にならない涙がだくだくと流れた。

 ごめんね、ともう一度言おうとしたとき、ひょいと抱き上げられた。

 乱れすぎてほどけたマフラーがするりと床に落ちるのも構わず、真先くんはわたしを寝室にあてている部屋に運びこみ、ベッドの上にどさりと下ろした。

 チャンダン香の香りが少し強まる。

 真先くんはわたしのコートのボタンを外して脱がせると、自分のジャケットも脱いで床に放った。

 もう止まらないと、知っていた。

 信じられないほどの強さで真先くんはわたしを抱きしめ、首すじに顔を埋める。

 その涙で首すじが濡れる。真先くんの体重を、全身で愛おしく受け止める。

 由麻さん。

 息だけでささやかれて、身体の奥がじんと痺れる。

 名前を呼び返そうとしたときだった。


 チャイムが鳴った。


 真先くんははっとして顔を上げた。

 ぴんぽん。ぴんぽん。

 息を止めて硬直している間にも、チャイムは連打される。

 真先くんが、こくりと唾を飲みこむ。

 嫌な予感は、いつだって的中してしまうものだ。

 ぴんぽん。

 もう一度チャイムが鳴り響き、それに続けて

「由麻いるー?」

と、和佐の声がした。

 ああ、やっぱり――――。

 真先くんはわたしから身を起こし、絶望の溜息をついた。

 ニヒルな微笑みを浮かべてわたしを見ると、意を決したように立ち上がって闇の中をよろよろと進んでゆく。

 インターホンのモニター画面に小さく映った和佐の姿が、暗い部屋の中で異常なくらい明るく見えた。

「……なんすか」

「由麻、いるでしょ」

 穏やかに、でも威圧的に和佐は言った。その声は揺るぎない確信に満ちている。

 真先くんをひとりで矢面やおもてに立たせたくなくてわたしも対応しようとしたけれど、真先くんが身ぶりでそれを制した。

「関係ないんじゃない? もう、兄貴には」

「由麻、帰るぞ」

 突然和佐が怒鳴った。心臓がぎゅっとつかまれたように痛む。

「タクシー待たせてるから。メーターどんどん上がってるから、早くして。服着てないんなら、早く着て」

「着てますよ」

 真先くんは怒鳴り返し、モニターの電源を切った。

 わたしを振り向いて、もう一度だけ強く抱きしめた。

 これ以上和佐を刺激して、近隣住民に聞こえそうな声で叫ばれるわけにはいかなかった。

 コートとマフラーを身につけ、床に置かれたままのチーズケーキや小説の手提げ袋を避けながら、わたしは玄関に立つ。

 パンプスに足を通し、真先くんを振り向く。

 このまま、もう二度と会えないんじゃないかという気がした。

「大丈夫だから」

 気持ちを察したように、真先くんが小さな声で言う。

 わたしはうなずいて、ドアの鍵を回す。

 チェーンを外してドアを細く開けた瞬間、和佐の手にぐんと腕をつかまれた。

 ほとんど引きずり出されるように、わたしは部屋の外へ出る。ハンドバッグがドアに引っかかりそうになった。

 和佐は片手でわたしを抱え、片手でドアを開いたまま

「ふざけんなよ」

と、玄関に立つ真先くんに向かって叫んだ。

「俺は、兄貴とは違う」

 真先くんが叫び返す。

「俺は他の女に行ったりしない。泣かせたりしない」

 和佐は一瞬押し黙り、

「おまえは部外者なんだよ」

と怒鳴って、乱暴にドアを閉めた。

 強い力で引きずられて歩きながら、わたしはマンションの通路にぼたぼたと涙を落とした。

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