心のままに[前]

「話があるんだけど」

 夕食後、てきぱきと食器をキッチンへ運ぶ和佐にわたしは言った。声が少し上ずるのを感じた。

「え、今?」

 和佐が振り向く。

 その顔を、その声を、つくづく好きだった、と思った。悲しいくらい、過去形で。

「うん。座ってほしいの」

 わたしは居間に移動して、ソファーに腰かけた。

「楽しい話?」

「……では、ないと思う」

「じゃあ、いいや」

 和佐はあっさり言って、食器をじゃぶじゃぶと乱暴に洗い始めた。わたしの大切なキャス・キッドソンのお皿が割れてしまいそうだ。

「いいやじゃなくて、大事な話なの」

 その広い背中に、必死で声をかける。

「自分は一日中、スマホ切ってたくせに?」

 冷たい怒りに満ちた声に、はっとして動けなくなる。

「言ったよね、俺明日面接なんだ。しかも本命のとこなの。最良のメンタルで臨みたいの」

「でも、あのね」

「明日、アルブルで話そう」

 和佐は振り向きもせずに言って話を打ち切り、

「炭酸水切らしたから買ってくるわ」

と部屋を出て行った。


 翌朝、和佐は早起きして、わたしが起きだす頃にはスーツに着替えていた。

「おはよう、あのね」

「アルブルで話そう」

 ぴしゃりと言って和佐は食卓につき、猛然と納豆ご飯をかきこみ始めた。

「面接終わるの、何時頃?」

「知らないけど午後一だから、まあ2時頃じゃない」

 和佐のこんなにそっけない声を聞く日が来るなんて、昔は思いもしなかった。永すぎた春。そんな言葉が浮かんで消えた。

「場所は?」

「四ッ谷の方。営業所はこっちだけど、本社で受けるから。セミナーは、有楽町」

「そう……」

「あ、俺由麻より先に出るから、ごみ捨てといてもらえる?」

 言われて玄関の方を見ると、既に部屋中のごみが袋にまとめられていた。普段はわたしの方が早く出勤するので、ごみの収集日は和佐にごみ出しを任せていた。

 その袋の中に見覚えのあるネイビーブルーの木綿生地が見えた気がして、わたしははっとして近づいた。

 まちがいない。真先くんのミャンマー土産のロンジーだった。紙くずや食品ごみに紛れて詰められている。

「ちょっ、和佐、これ!」

 歯磨きを始めていた和佐に、袋ごと持っていく。

「これ、ロンジーじゃない。捨てちゃうの? なんで?」

「ああ、それ」

 ぞっとするほど冷たい目で、和佐はこちらを見た。

「いらないっしょ。どうせ履く機会ないし」

 歯ブラシを動かしながらも明瞭な発音で彼は応える。

「でも……でも、ミャンマーでしか買えないものだし、せっかく和佐に似合うの選んできてくれたんだし、とっておいたっていいじゃない」

「じゃ、由麻が履けば」

 ぺっ、と流しに泡を吐いて、和佐は言った。それがまるで、ロンジーに――そしてわたしや真先くんに唾を吐いたように思えて、わたしは硬直してその場に立ち尽くした。


 和佐が出ていったあと、わたしは袋からロンジーを取りだした。

 意図的に台所のごみと混ぜたのだろうかと邪推してしまうほど、それは生卵の残りやトマトの汁で汚れていた。

 わたしはロンジーを下洗いし、洗濯機に放りこむ。水量に対する目安よりも多めの洗剤を入れ、「念入りすすぎ」を選んでスタートを押した。

 和佐が早く家を出てくれたのは、好都合だった。

 今日はもともと入籍予定日だったので、年末の時点で伊佐野さんに有休を申請していた。結婚が延期になってからもそれをキャンセルせずにいたこと、そしてそれを和佐に言わずにいたことは、結果的に正解だった。

 ごみを出し、顔を洗い、朝食を済ませたあと、わたしは冷蔵庫の扉を開ける。

 昨日の帰りに他の食材と一緒に買ってきてチルドコーナーの奥に隠すように入れておいたクリームチーズを取りだした。

 それが常温に戻るのを待ちながら、わたしは真先くんにLINEを打つ。せいいっぱい、当たり障りのない言葉を選びながら。

「おはよう。確認し忘れてたんだけど、今月からもう就業中なんだよね?」

 あれから何度も何度も蘇った日曜の電話の最後の言葉が、また胸をきゅっと締めつける。

 応えてほしい。わたしはもう、あなたを傷つけないから。

 返信を待つ間に、チーズケーキの材料を混ぜた。

 無視されるかもしれない。不安になりかけた頃、スマートフォンがぴろんと鳴った。

「そうですよ」

 何の感情も読み取れない。

 けれど、すぐに続けて

「ちなみに明日から金曜まで、研修で北陸へ行きます。石川県。土曜に帰ってきます」

 追加情報をくれた。それだけで胸がときめく。

 明日から不在にするなんて。ああ、本当に今日しかないのだ。

「了解! ありがとう」

 がんばってね、すら言わずにわたしはトークを終了させ、手を洗ってケーキ作りに戻った。だまにならないよう、念入りに生地を混ぜこんでゆく。

 オーブンを余熱しながら、冷蔵庫で生地を寝かせる。自分のためだけの簡単な昼食を作る。

 洗濯の終わったロンジーをベランダに干す。少し色落ちしたけれど、逆に味わいのある風合いになった気がした。

 意外と時間が、ない。

 早めの昼食をとり、食器を片付け、チーズケーキをオーブンにセットする。

 全身を丁寧にケアしながらシャワーを浴び、この冬いちばん気に入っている服を着て、化粧を施す。髪をスタイリングする。

 焼きあがったケーキを冷蔵庫で冷やす間、わたしは和佐に電話をかけた。

「……はい」

 夜まで対話を拒否するつもりかと危惧したけれど、意外にもすぐに出てくれた。

「お疲れさま。面接終わった?」

「うん。あれ、仕事中じゃないの?」

 和佐はまだ四ッ谷だろうか。背後に人のざわめきの気配を感じる。iPhoneは、昔の携帯電話のように雑音を拾ったりしないけれど。

「今日ね、休みを取ってたの」

「へ?」

 和佐は喉を絞められたような頓狂とんきょうな声を出した。

「和佐、あのね。わたし、アルブルへは行かない」

「……なんで」

 困惑と怒りの声。めげずに、言葉を継ぐ。

「今日、バレンタインでしょ。好きな人にチョコあげる日でしょ。わたしこれから、好きな人のところに行くから」

 和佐が息を飲む気配がした。

「和佐もアサミのところへ行ったらいいよ。どうせわたしたち、もうだめなんだから。ほんとはわかってるんでしょ?」

「ちょっ」

 ふざけんな、と叫ぶ声を聞きながらわたしは通話を切り、電源を落とした。


 冷やしたチーズケーキを大事に包んで、用意しておいたマチの大きな手提げ袋に入れた。

 ハンドバッグの他に角田光代の文庫を詰めた袋も持つと、結構なボリュームの手荷物になった。

 鍵を閉めて、駅へ向かう。

 普段の出勤と同じ要領で一駅だけ電車に乗り、調べておいた路線から工業団地行きのバスに乗り、真先くんの勤める会社の名前が付いたバス停で下車する。

 自分の勤め先の工場と近いし、有名企業なので何となく知っていたけれど、敷地内にはいくつもの棟があり、やみくもに広い。この中のどこかに、真先くんはいるのだろう。

 ずいぶん先の方を歩いていた青い作業着を来た人たちが数人、建物の中に吸われるように入ってゆくのが見えた。

 従業員用の駐車場を目指して歩みをめぐらせる。守衛室の前で氏名を書かされ、来客用のバッヂを渡された。少しどきどきした。

 バッヂをコートの襟に着けて、さらに歩みを進める。

 桜と思われる並木に沿って歩いてゆくと、向かって右手に大きく道が開けて、その奥に駐車場がある。そちらを目指して歩いていった。

 車。車。車。

 膨大な数の車がある。わたしの勤め先の10倍、いやそれ以上だ。車通勤者だけでこれだから、いったいここには何人の従業員がいるのだろう。

 くじけそうになる心を引き締めて、わたしは白い車を1台1台確認し、真先くんのアルファロメオを探した。

 白い車はたくさんあった。このままでは、文字通り日が暮れてしまうかもしれない。その前に、不審者とみなされとがめられるかもしれない。

 普通に電話で連絡したほうがいいのはわかっていた。けれど、正社員として社会復帰したばかりの真先くんの就業中に連絡をするのは、どうしてもためらわれた。それに、スマートフォンの電源を入れた瞬間に和佐から怒りの電話が来そうな気がして、怖かった。

 辺りが暗くなり始める。手提げ袋を持つ手がしんどくなる。たびたび持ち替えながらひたすら歩き回り、しらみつぶしに探してゆく。何度も乗せてもらったあのイタリア車を。

 真先くんの運転が、誰の運転より好きだった。助手席に乗ったときの無敵感。わたしを遥か遠くまで、楽しく安全に連れていってくれそうな安心感。あの助手席にわたし以外を乗せてほしくないことに、今更気づくなんて。

 何ブロック歩いただろうか。すっかり日が落ちる頃、ようやくあの個性的なエンブレムを冠した白い車体が目に入り、わたしは足を止めた。

「あった」

 思わず声が出た。ナンバーも間違いない。わたしは車の隣りにしゃがみこんだ。泣きたくなるほどの安堵がこみあげる。

 今更ながら息切れがして、わたしは呼吸を整える。そのままアルファロメオに身を寄せていた。北風がないのと、近くを人が通らないのが救いだった。

 終業時間は17時だろうか、18時だろうか。何時まででも待つつもりだった。

 17時15分。突然チャイムが鳴り響き、どきりとする。建物から人がぱらぱらと出てきて、駐車場へも次々にやってくる。

 緊張で、胸が張り裂けそうだった。

 近くに停まっていた黒い国産車に乗り込む男性が、ちらりと不審そうな視線を投げてよこした。

 真先くん。真先くん。真先くん。胸の中でひたすら名前を呼ぶ。

 また、人が来た。まっすぐにこちらの方へ歩いてくる。

 まずい。さりげなく身を隠そうとしたとき、その靴が見覚えのあるものだと気づいてわたしは立ち上がった。

「なにやってんの」

 真先くんが驚いた顔で立っていた。

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