ジンジャーエール

「明日ってさあ、どうするー?」

 朝食の席で納豆を練り混ぜながら、和佐が明るくたずねてきた。

「明日って?」

 訊き返した瞬間に理解した。明日は2月14日なのだ。

 普段の外食は和佐に負担してもらっているけれど、毎年バレンタインデーと和佐の誕生日だけはわたしが店の手配から支払いまで行う。

 和佐は特に傷ついた様子もなく、

「ほら、14日じゃん?」

 と言う。

「あ、ああ」

 しらじらしい反応になってしまった。

 今年はそれどころじゃなかった。そもそも、入籍するかもしれなかった日だったというのに。

 しかも――昨夜は一晩中、真先くんのことを考えていた。もう誰に遠慮することもなく。

 そして、ひとつの結論を得た。

「はは。実は由麻がノープランなんじゃないかと思って、俺昨夜、アルブルに予約入れちゃった。いいよね?」

 わたしは驚いて箸を止めた。

 このに及んで仲良くバレンタインを過ごせると思っているのか、この人は。

「由麻の誕生日と同じくさ、19時に現地集合でいいよね?」

「……もう、予約しちゃったの?」

「今回は俺が出すからさ。いろいろ迷惑かけちゃったし、埋め合わせ。ね?」

 和佐が箸を持ったまま拝むポーズをしたので、納豆の糸がふわりと舞った。

 ああ。思えばわたしはこの人に、ずっとイニシアチブをとられてきた。

 それを心地よく感じていた頃もあったけど、こんなに好き勝手された今は――違う。

「俺、明日は午前がまたセミナーで、午後に面接一本あるから、その後で向かうね」

 黙っていると、

「アルブルって言えばさ」

 和佐は勝手に話を進めた。

「アルブルで挙式するのって、どうかな」

 またしてもわたしは驚く。

「……え?」

「ほら、俺のせいであの教会、だめになっちゃったじゃん? だけど灯台元暗しってやつでさ、アルブルってレストランウェディングやってるんだよ。ま、チャペルとかあるわけじゃないから人前じんぜん式になるんだろうけど」

 わたしは箸を置いた。

 たしかに、誕生日に訪れた際「小さな結婚式をしませんか?」という手作りの案内がトイレの扉などに貼られていた。

 アルブル藤沢店は12席くらいしかない小さなレストランだから、立食形式にしたとしても最大収容人数は20人くらいではなかろうか。

「でも、それだとずいぶん呼べる人、減っちゃわない? ずいぶん話が変わってこない?」

 困惑して、わたしは言う。

「いや、それかどっか今から探して挙式会場だけ別にしてさ、身内だけで披露宴するのに使ってもよくない?」

「逆じゃない? 挙式は身内だけでも構わないけど、披露宴はお世話になった人いろいろ呼ぶでしょ、普通」

 あまりにもお手軽な代替案に、わたしはいらいらした。浅慮にもほどがある。

 和佐はもっと聡明な人だと思っていた。けれど、最近の和佐は愚鈍に思えて仕方ない。

 それがアサミとの出会いによる変化なのか、わたしが盲目的に彼を愛しすぎて気づかなかっただけなのか、もはや判別できなかった。

「これが和佐の埋め合わせなの? そもそもあたし、このまま挙式なんてする気ないよっ」

 乱暴に言って、食卓から立ち上がる。どんなに苛立っても、いつもの電車に乗りたかった。

「由麻」

 化粧を済ませた顔に、また涙がにじんできた。

 無言で身じたくし、もの言いたげな和佐を残して部屋を出る。憤りでほてった頬を、北風がなぶる。

 わたしが婚約指輪をはめていないことに、和佐は気づきもしなかった。

 いつものコンビニに立ち寄り、いつも通りLIPTONの棚に手を伸ばしかけて、やめた。

 ジンジャーエールのCANADA DRYを手に取る。

 真先くんは、これが好きなのだ。

 それから、バレンタイン特設コーナーでチョコレートの箱をひとつ選び、レジ待ちの列に並んだ。

 スマートフォンが、和佐からの着信でふるえ続ける。鞄から取りだして、電源を切った。


 丹羽さんは、いつのまにかずいぶん痩せた。

 今日も変わらずダイエットクッキーをレジ袋から直接食べている。他にも見えないところで努力を続けているのだろう。

 そう、見えるものだけがすべてじゃない。

「あれ? そう言えばさあ、イケメンの弟くんと長谷川さんはどうなったんだっけ?」

 指定席と化している窓際のカウンター席で、3人の真ん中に座っている丹羽さんから突然ずばりと訊かれ、わたしも長谷川さんも冬野菜炒め弁当から顔を上げた。

 今日も富士山は真っ白だ。神々しい、とわたしは思う。

 長谷川さんとは、あれからずっと上辺うわべだけの会話しかしていない気がする。丹羽さんを介さないと話せない。

「ふられましたよ、とっくに」

 長谷川さんが、前を向いたまま言った。丹羽さんが小さく息を飲む。

「えー、その話なんですが」

 わたしは覚悟を決めて箸を置き、スツールを回転させてふたりの方に向き直った。

「ごめんなさい」

 深々と頭を下げる。丹羽さんがぎょっとする気配。

「ほんとにほんとに、ごめんさい」

「なに? なに? ついていけないんだけど」

 完全に困惑している丹羽さんの奥から、長谷川さんの視線がまっすぐわたしをとらえていた。

「わたし、自分の心とじっくり対話しまして」

 伝わるだろうか。伝わらなくてもいい。許されなくてもいい。

「きっと最初から、長谷川さんのこと応援なんてしてなかった。ごめんなさい」

 ふたりの視線を受け止めながら、わたしは言葉を紡ぐ。

「真先くんのこと、ただの彼氏の弟だなんて思ってなかった。いつからかはわからないけど」

「あー! ばかみたい」

 長谷川さんが急に大声を出したので、周りのテーブルで食べていた社員さんたちが一斉にこちらを見る。シュラバ? と誰かがささやく声が聞こえる。

「わかってましたよ、なんとなく。雪の日にマックで、舘野さんがいきなり帰っちゃったときから。少女漫画かっつーの」

 ああ。自分でも気づかない気持ちに、気づかれていた。

「あのね、違うの」

「違くないでしょう」

「聞いて。本当に気づいてなかったの、自分の気持ち。まさかそんなって、今でも思ってるの。最低だよね」

「……彼氏と、どっちも好きだったってこと?」

 丹羽さんがおそるおそる言葉を挟んだ。

「……最低ですよね。彼氏にもうひとり彼女ができて、最低最低って思ってたけど、自分の方がずっと最低でした」

 そうだ。自分の気持ちに忠実に動いていたぶん、和佐の方がまだましなのかもしれない。人として。

「え!? 彼氏に!?」

「丹羽さん、そこはいったん置いといてください、後で説明しますから。……舘野さん」

 長谷川さんが軽く首を揺らし、美しい緑の黒髪がきらりと肩にこぼれた。

「絶好のタイミングで、バレンタインですね」

「……」

「ちゃんと後悔のないようにしてくださいね」

 久しぶりに長谷川さんが笑ってくれた気がした。

「気持ち悪いよね、わたし。兄の彼女が自分のこと異性として見てるなんて、気持ち悪いよね」

 わたしは子どものようにぐずぐずと言う。だらしない涙が、またせりあがってきた。

 会社で泣くなんて、しかも私情でなんて、本当にださい。恋は、人をださくするのかもしれない。

「兄とだめになって次はその弟だなんて、節操なさすぎるよね。しかも4つも年上なんだよ」

「いいかげんにしてくださいよっ」

 長谷川さんの鋭い声が響いた。

「好きならもう、仕方ないじゃないですか。あの女の人のことも関係なく、そうなんでしょう? あたしが諦めたこと、無駄にしないでくださいよ」

 泣きながら、わたしは必死にうなずく。

 本当は、歳なんて関係ないと知っていた。

 和佐だって、4歳年上のアサミを好きになったのだ。


 久しぶりに、志賀さんをカフェスペースに呼びだした。キャビネットの上に、先週末で異動になった社員からの菓子折りが置かれている。

「うおっ、髪が変わっとる! かわええやん」

 褒めてくれる志賀さんに、

「はいっ。義理チョコです」

と今朝コンビニで買ったチョコを渡した。

「そんなにはっきり、義理って言わなくても……」

 志賀さんはへなへなと膝を崩しながらも受け取ってくれた。わたしは笑う。

「でも、なんで明日じゃないの?」

「明日は、お休みいただくんです」

「そうなんだ。……あれっ」

「何ですか?」

「指輪は!?」

 志賀さんは、コーヒーを淹れるわたしの手を凝視している。

「気づいちゃいました?」

「え、え、どういうこと? 別れたの? メルカリに売ったの?」

 売りませんよ、と笑いながら答える。やっぱり志賀さんはおもしろい人だ。

「自分の気持ちを精査してみたんです」

 キャビネットに寄りかかって、熱いコーヒーに口をつける。

「精査って……」

「彼氏には裏切られたけど、実はわたしも無意識に裏切ってたんです」

 そう。いくら酔っていたとは言え、好きでもない男にキスなんてしない。和佐がアサミに出逢う前から、わたしの不実は無意識に始まっていたのだ。

「……弟くん?」

 仰天して、志賀さんを見た。

「エスパーですか!?」

「いや、なんとなくだけど。なんか弟くんのこと話すときの声がさ、つやっぽかったから。自分ではわからなかっただろうけど」

 わたしは、深い深い溜息をついた。

 そして、心の底からおかしくなって、笑った。

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