膝を抱えて

 驚いたのは、和佐が普通に接してくることだ。


 土曜日、和佐は午後2時頃になって、ずぶ濡れで帰ってきた。

「いやー、よかったよ、俺が行って」

 髪を拭き着替えをしながら、訊いてもいないのに彼はぺらぺらと説明した。

「里親ボランティアの会の人がさ、なんか勘違いしてたみたい。アサミの部屋はたしかに狭いけど、庭がザッシュの駆け回れるくらいの広さだって知らなかったんだって」

 わざとらしいくらいほがらかな声で喋る。わたしは黙っていた。

「なんかほら、保健所から犬猫を引き取るだけ引き取って虐待したり売り飛ばしたりするような悪質な人もいるから、一時預かりする人の身元のチェックが厳しくなったんだって。そこは俺が、彼女はそんなことしませんって強調して、証言できたからよかった。まじでよかったよ、第三者の証言が必要だったんだ」

「そう」

「ボランティアのリーダーの人のとこで預かってた犬の里親が決まって、1匹分余裕ができたからって、連れて行かれるところだったんだ。でもほら、ザッシュはアサミの家族みたいなもんだし、フルで働いてるっつってもちゃんと留守番できる子だから今更な話だし、説得成功したよ。ほんとによかった」

 よかったね、とわたしは小さく言う。

 何も心に響いてこなかった。何も聞こえていないのと同じだった。

「由麻、なんか食べた? 俺まだ。この天気だし、ピザでもとらね?」

「……教会から連絡あった?」

 しらじらしいくらいブライダルの話を避けようとしているので、わたしは言った。

 和佐はやっと真顔になって、わたしの座るソファーの前にひざまずいた。

「ごめん。ほんっとに、ごめん」

 床に頭をつけてみせる。それすらパフォーマンス的というか、なんだか演技がかって見えた。

「由麻にひとりで行ってもらう手もあったんだけど、そこまで頭回らなくてキャンセルしちゃった。ほんとにごめんな。埋め合わせするから」

 いくら土下座されても、心は石のように冷え固まって動かなかった。

 彼氏は他の女のところへ駆けて行ったけど、挙式はするのでひとりで見学にきました! なんて、言えるわけないでしょう。

 そんなつっこみすら入れる気力もなく、わたしはソファーの上で膝を抱え、心を閉ざして黙していた。

 叩きつけるような雨の音だけが部屋を包んでいた。


 翌日曜は、ひとりで行動した。

 何事もなかったかのように話しかけてくる和佐に対し、もはや何の感情も湧いてこない自分が怖かった。怒りも憎しみも嫌悪感も感じなかった。空気になってしまったかのようだった。

 久しぶりに美容院へ行き、この数年ウェーブだった髪をストレートに戻した。

 デザインカットといちばん高いコースのトリートメントもしてもらい、髪はつやつやのさらさらになった。

 午後はよもぎ蒸しの体験に行き、身体の毒素を抜いた。

 専用マントにすっぽりとくるまり、全身からだくだくと汗が吹き出るままにしながら、わたしは自分の心の毒も流れてゆくことを願った。

 和佐にあんな醜態を見せて、それでもつなぎとめられなかった心。

 また、じわりと涙がこみあげてきた。今までどんなに辛い局面でもあんなに泣くのを我慢できていたのに、一度涙腺が崩壊してしまってからは抑えがきかなくなっていた。

 よもぎとアロマの香りの中、汗に紛れてわたしは静かに涙を流し続けた。


「いいねえ、よもぎ蒸し。むくみが取れてすっきりしたんじゃない? いや、由麻はもともとむくんでないけど。あ、なんかいいにおいする」

 帰宅すると、和佐はやっぱり快活に話しかけてきた。あれほど雨に濡れたのに、日頃の健康習慣の賜物たまものか風邪もひいていない。

 返事もしないままコートを脱ぎ、わざと大きな音を立ててうがいをする。

「由麻の髪がまっすぐだと、出会った頃を思いだしてどきどきするな」

 めげずに話しかけてくる和佐をスルーして、自室に向かう。

「あれ、ごはんは?」

「いらない」

 まるで反抗期の子どもみたいだと思いながら自分の部屋に入り、内側から鍵をかけた。

 デトックスした直後なので、外で軽くスープだけ飲んで帰ってきたのだ。そうでなくても食欲は湧かないし、和佐の偽善的な笑顔を見ながら食事なんてできそうになかった。

 偽善的な笑顔――恋人に対してそんな言葉が浮かぶ自分に少しぞっとしながら、わたしは自分の書棚の前に立つ。

 文庫はすべて、著者の名前の五十音順に収納している。角田光代のコーナーを探して、小説だけをごっそり抜きだした。

 多作な作家なので、結構な量がある。わたしはそれを、ANNA SUIのショップバッグに詰める。底が抜けないように二重にして、きっちりと詰めてゆく。

 わたしの、本をたくさん読んでいるところが好きだと、和佐は言った。

「いいなあ、夢中になれる趣味があるって。お勧めあったら貸して、俺も読みたい」

 付き合い始めた頃、和佐はそう言って本当にわたしから本を借り、長い感想をメールで書いて送ってくれたりした。

 一緒に住んだらいつでも借りられるねと言っていたのに、同棲開始以降、彼から何か読みたいと言ってきたことはほとんど――いや、一度もない。

 文庫本を詰め終わると、わたしはスマートフォンを手に一人がけ用のソファー椅子に腰かけた。

 赤い革張りの座面が、ゆっくり沈みこむ。

 傷つくなら、まとめて傷ついてしまいたかった。わたしは真先くんに電話をかける。

 冷たい対応をされても構わなかった。何せ今、わたしの心は石化しているのだから。

「……はい」

 真先くんの声が鼓膜を震わせる。

 日本にいたんだ。考えたら今月から就職しているのだからあたりまえなのだけれど、いたのに連絡をくれなかったのだという事実に少し苦い気持ちになった。

 それでも、応答してもらえたことが嬉しかった。

「あの」

「うん」

「今、話せるでしょうか」

「どうぞ」

 この前よりも柔らかい声に、やっぱりほっとする。ソファーの上で、わたしは膝を抱えた。

「あのね、角田光代を貸したいなと思って」

「うん。俺もエッセイを貸したいよ」

「ありがとう。貸し合いっこしよう」

「でも、そっちは忙しいんでしょ。挙式の準備やら何やらで」

 すねたような口調で真先くんは言った。

「そちらだって忙しいんじゃないの? この前だって急いでたし」

「……この前は、ごめんね」

 急に謝られて、どきんとする。

 ああ、わたしは今、真先くんと一対一で話している。和佐の弟としてじゃなく、小平真先と心を通わせたくて。

「すげえ嫌な言いかたになって、ほんとごめん」

「……ううん。今、話せて嬉しいから」

「兄貴に、怒られたんだ」

「えっ?」

 和佐に?

「由麻さんが酔ってキスしたこと、思いださせただろって。せっかく本人忘れてたのに言いやがって、ふざけんな、って」

 そんなこと聞いていない。わたしには「忘れていいよ」で終わらせたくせに。

「俺たちは結婚するんだから、これから挙式準備で忙しいんだから邪魔するな、って。少なくとも籍入れるまではもう由麻に会うな、関わるな、ってすげえ剣幕で電話してきたよ」

 それで先月の真先くんは、電話であんな態度だったのだろうか。何も知らずに高揚した気分で電話して、勝手に傷ついていた。

「知らなかった、全然……ごめんね」

「あ、でも実際あのときちょっと急いでたから。年末ジャンボの当せん金の引き換えに行ってたんだ。みずほ銀行に」

「うそ。当たったの?」

「うん、100万」

「ええっ!?」

 さらりと言われて、思わず変な声が出る。

「株で稼いだ額に比べたら、たいしたことないけどね」

「でもすごい、すごいよそんな。よかったねえ……」

「年末からいろいろありすぎて、当せん確認するのすっかり忘れてたんだよね」

 年末からいろいろ。その言葉にこめられた含みを感じとって、わたしの心は再び萎縮する。スマホを持っていない左手で、膝をぎゅっと抱え直した。

「……いろいろ、ごめんなさい本当に」

「いいんだよ、もう。会うなっつーなら会わないよ。どうせ結婚するんでしょ。あんな兄貴だって、結局好きなんでしょ、由麻さんは」

 怒ったような、そしてどこか悲しそうな口調で、真先くんは述べたてた。

「あんな鬼畜な兄貴だって、結局離れられないんでしょ。バレンタインだっていちゃいちゃするんでしょ」

「真先くん」

 石になったはずの心に火がともる。熱く、大きな炎になる。

「もしわたしが和佐と別れたら、真先くんとも他人になっちゃうの?」

 真先くんは不意を突かれたように黙った。

「わたしは、そんなのやだ」

 沈黙は続いた。

 話の着地点も決めずに口走ってしまったことを悔やみつつ、電話の奥の真先くんの気配に耳を澄ませる。

「……なんだよ」

 ふいに、真先くんは言った。

「どうして諦めさせてくれないの?」

 電話はそのまま切られた。

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