犬と雨
その日は、朝から
2月の第2土曜日。本命の式場見学と、結婚指輪を見に行くために出かける日だ。
「あー、午後までずっと雨だわ」
和佐が天気予報を見ながら言う。
わたしも自分のスマートフォンでそれを確認していた。
少し前に最新のiPhoneに機種変更したばかりだ。容量も思いきって最大のものにした。
ブライダル関係で何かと写真を撮る機会が増えたし、試着とは言え新郎新婦の衣装を身にまとった姿は高画質で保存しておきたかった。
出発時刻が近づく頃、風も強くなってきた。横殴りの雨になっている。傘は役に立つのだろうか。
どんなに天候が悪かろうと、万難を排して向かうほかなかった。今日を逃すともう、この式場とは縁がなくなってしまうかもしれない。
「フジロックばりの装備がいるかもね」
窓の外を見ながら和佐が言う。
苗場の山で毎年夏に開催されるフジロックフェスティバルへは、数年前に
全3日間のうち2日間はほとんど雨で、ウィンドブレーカーや雨合羽を着込み、レインブーツで凌いだのだった。
雨がどんどん入り込んで薄まってゆくエチオピアカレーを「これはこれでうまいんだ」と笑いながら掻きこんでいた真先くんを思いだして、胸の奥に
真先くん。
もう、会えないのだろうか。これから家族になる人なのに、ここまで連絡がないとそんな不安を覚えてしまう。
もしかしたら、就職前の最後の機会にまたふらりと海外へ出かけたのかもしれない。そうであってほしいと思った。2月から就職するとは言っていたけれど、何日から開始なのかは聞いていなかった。
少し早めに家を出ることになって、わたしはcrocsの黒いレインブーツを靴棚の上から下ろした。
和佐もトレッキングシューズを取りだしている。本格的にフジロック装備だ。
あまりにも豪雨なので、財布やスマートフォンも念のためファスナー付きのクリアケースに入れてから鞄にしまった。
和佐がガスの元栓を確かめにキッチンへ戻る。
そのとき、和佐の鞄の中から振動音がした。
じーん。じーん。
とてつもなく嫌な予感がわたしを襲った。
床に置かれた鞄から、その振動は響き渡る。キッチンへ行った和佐が気づかないことをわたしは願った。
じーん。じーん。じーん。じーん。
「あれ? 俺?」
しかしながら、彼は気づいてしまった。
わたしは玄関に立ち、レインブーツに足を通して言う。
「もう出ないと間に合わないよ、雨だし」
「そうだね」
和佐がためらっている間に着信は一度鳴りやみ、すぐに再び鳴りだした。
心に暗雲が立ちこめる。
じーん。じーん。じーん。じーん。じーん。じーん。じーん。
「折り返してくれってだけ、言うよ」
和佐は玄関まで歩いてくると、鞄からクリアケースごとスマートフォンを取り出す。
画面を確認し、溜息をつきながらこちらに向けて見せた。
「アサミ」。
わかってる。わかってた。いつも狙いすましたようなタイミングでかかってくるのだ。
だけど、今だけは邪魔させない。この外出は阻止させない。
「出ないで!」
ほとんど悲鳴のように言った。けれど、ほぼ同時に和佐は通話ボタンを押していた。律儀に、スピーカーフォンボタンも。
「悪いけど」
「ザッシュが」
アサミの声が、同時に発せられた和佐の声にかぶさった。
「ザッシュが、連れて行かれちゃう」
アサミは泣いていた。聞いているこちらの胸が締めつけられるような悲痛な声で、身も世もなく悲しげに泣いていた。
「……なんで?」
アサミの切羽詰った様子に、和佐が反応しないはずはなかった。
やめて。やめて。やめて。何も言わないで。わたしの和佐を、連れて行かないで。
「うち、だめだったの。ほんとは、一時預かりなんかしちゃ、いけなかったの」
アサミは泣きながら、切れ
もうだめだ。乗ろうとしていた電車には、もう間に合わない。
「どういうこと?」
ばか。ばか和佐。折り返しを頼むだけって、言ったじゃない。わたしはぎりぎりと和佐を見つめる。
「6畳の、ワンルームじゃ、いっ、犬の預かり、していい条件を、満たしてなかったの。それが、ばれて、これからボランティア団体の人が、引き取りに来るって」
しゃくりあげながらそこまで説明すると、アサミはおいおいと泣いた。
「……でも、庭もあるじゃん。それじゃだめなの?」
「だめだって。室内に犬専用スペースが、ないから。それにあたし、一人暮らしで、働いてて、日中いないから、預かり環境として、ふ、不適格だって」
「そんなの、今更じゃないの。殺処分よりどんなにましなのさ。なんでそこ融通きかないの?」
和佐は既に、アサミの悲しみを引き受けていた。こちらを
わたしは念を送った。和佐、こっち向いて。和佐。
今日の式場見学に行けなかったら、そのままもうどこの式場でも挙式できない気がした。それどころか、和佐とのすべてが終わってしまうような気がした。
それは予感と呼ぶにはあまりにも濃厚に、わたしの心を支配した。
「あたし、あたし、どうしたらいい? ザッシュが」
アサミはパニックを起こし、子どものように泣いている。
「アサミ、落ち着いて」
今からなら。わたしは
今すぐに出れば、次の電車には間に合う。早足で行けば、きっと遅刻しないで済む。もしくは電話1本入れて、少しの遅刻だけで。
「お願い、かずくん、お願い、あたし、ザッシュが、ザッシュが」
まだ間に合う。まだ。
「わかった、わかったから。今すぐ行くから」
その言葉は、他人の耳を介したように鼓膜に届いた。
和佐は電話を切った。そして、ようやくわたしを見た。
「……ごめん、俺」
「行かないで!」
わたしは叫んだ。
「行かないでよ、和佐。行かないで! だって、今日はほんとに大事な」
和佐はわたしを見つめる。自分の方が傷つけられたような、あの顔で。
そして、あの台詞を吐いた。
「ごめん、由麻」
突き落とされる。闇の底へ、魂が落ちてゆく。
「……どうして」
声が震える。涙が湧き上がる。もう、いくら奥歯を噛んでも無駄だった。
「今日を逃したら、もうあの教会で挙式できないよ?」
「そうかもしれないけど……でもアサミにとってザッシュは、たったひとりの家族なんだ」
「和佐だって、あたしにとってたったひとりの婚約者だよ!」
和佐はうなだれる。
わたしはレインブーツを脱ぎ、玄関のドアに叩きつけるようにして放った。
どうせ、もう、間に合わない。きっと、何もかも。
「和佐。和佐にとって、何が、誰がいちばん大事なの。考えて」
それでもわたしは、和佐の腕をつかんで揺さぶる。
「今日、式場見学して、その足で指輪見に行こうって、言ったじゃない。また予定ずらすの? あたし、いつまでばかみたいに待ってればいいの!? 目を覚ましてよ!」
速まる動悸のせいで肩で息をしながら、わたしは和佐を揺さぶり続けた。こんなに激昂するのはいつ以来だろうか。
「……ごめん、ほんとにごめ」
「だからごめんじゃなくて!」
「由麻」
「聞いて。和佐、聞いて。あなたたちが出会った日、和佐のドリンクをお酒にすり替えたの、アサミなんだよ。わざとだったんだよ」
和佐は一瞬顔を上げる。その顔には、そんなこと知っていると書かれていた。
「これ、見て」
わたしは猛然と自分の鞄を開いた。クリアケースのファスナーを開けるのももどかしく、スマートフォンを取り出す。
「見てよっ」
アサミのTwitterを開いて見せつけた。和佐は眉根を寄せてそれを見る。その手にスマートフォンを押しつけて、握らせた。
「ずっと和佐とのこと、赤裸々に書いてるんだよっ。何が天涯孤独よ、1万人もフォロワーいるんだから! その人たちに古女房だの奪還しろだの、好き勝手言われてるんだよ、あたし。何がふたりきりのランチよ、何がキスしそこなったよ、ふざけんな!」
わたしは叫んだ。過呼吸になりそうだった。
キスという単語に少しだけ、和佐は表情を歪めた。けれど、それが少しも彼の心に響かないことをわたしは悟っていた。彼の決意を揺るがせることは、わたしにはできないのだ。
「どれだけ、どれだけ傷つけばいいのっ」
涙目で取り乱すわたしを、和佐は悲痛な顔で見ていた。でもその目にわたしは映っていない。視線はわたしを通り抜けて、彼が今逢いに行くべき人を見ていた。
「……本当に、ごめん」
わたしにスマートフォンを返しながら、重々しく、かつきっぱりと和佐は言った。
「由麻を愛してる。でも」
「でも、なんなのよ!? アサミのことも愛してるって!?」
なんだこの陳腐な台詞は。これは誰の人生なんだ。身体がばらばらになりそうだった。
和佐は、否定しなかった。
「とにかく、行く」
決然と言い、わたしを半ば押しのけるようにしてトレッキングシューズを履き始めた。
「ほんとに行くの? これだけ言っても」
震える声で、問いかける。
せめて振り返ってほしかった。でも、
「ごめん」
和佐はドアを開けた。冷たい風が吹きこんでくる。
「和佐!」
ドアはばたんと閉められた。わたしはその場にくずおれた。
嵐の中を、水しぶきをはね上げながら猛然と走ってゆく恋人の姿が、瞼の裏に映しだされていた。
あの夏の終わりの日から初めて、わたしは声を上げて泣いた。
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