恋は罪悪ですか
タクシーは夜を縫うように走ってゆく。
後部シートに座る和佐とわたしの間に目に見えない深い川が横たわっているのを、はっきりと感じていた。
「ずいぶんご都合主義だね、由麻」
川の対岸から、和佐が声をかけてくる。ぞっとするほど暗く、低い声で。
「いくら何でも弟なんてさ、ルール違反でしょ」
心臓がずきりと痛む。
タクシーの運転士の人格を無視してプライベートな話をするのは好まないはずの和佐だったのに、本当にこの人はどうしてしまったのだろう。
口もきけずにいると、さらに重ねて
「でもまあ未遂だったんなら、許すよ」
などと言う。
驚き呆れて彼の顔を見る。腕組みをし脚も組んで、負のオーラを放ち、不機嫌全開で座っているわたしの恋人――だった人。
「今ならぎりぎり許すよ。俺もまあ、人のこと言えないわけだしね。お互い、何もなかったことにして結婚しよう。俺、今日受けたとこたぶん受かるし」
「なに言ってるの」
思わず鋭い声が出た。
「今更……今更結婚できるわけないでしょう。自分は何度裏切ってきたと思ってるの、あたしのこと」
いい歳してタクシーの中で痴話喧嘩だなんて、恥ずかしくてたまらない。でも、火の付いた感情は勝手に口を動かしてしまう。
「わかってるよ。でも謝ったよね? 俺。自分はなんなのさ。いつからあいつが『好きな人』になったわけ?」
暗い車内に、こちらを見つめる和佐の両目がいかつく光っていた。
深呼吸をしながら、わたしは視線を夜景に戻した。
「わからないの」
本当にわからなかった。
少なくとも、真先くんと長谷川さんを引き合わせてしまった日の鈍い痛みの正体は、今思えば恋と呼ぶべきほかなかった。
でも、もっともっといくらでもさかのぼれそうな気がした。誕生日に、車で迎えに来てくれたときのときめき。たくさんの会話の中で感じたシンパシー。
さらにもっと。ああ、内モンゴルから帰ってきたときの真先くんは、ひと回り大人っぽく見えたんだった。それできっと、わたし――。
「本当にわからないの、自分でも」
和佐にというより、夜景に向かって自問するようにわたしは言った。
もしかして、もしかしたら、出会った瞬間から心のどこかで……?
そう言われたらもう、否定できる気がしなかった。理性と常識と和佐への愛の大きさによって、一瞬のうちにわたしはその気持ちを無自覚のまま抹殺あるいは封印してしまったのではないだろうか。
隣りから、和佐の苛立ちが匂うように伝わってきた。
「俺は気づいてたよ、なんとなくだけど。俺にはわからない話でふたりがさんざん盛り上がってるときとか、俺がどんな思いしてたと思う? ねえ。あいつが舐めるように由麻のこと見つめているときとかさ」
和佐の語気がどんどん荒くなってくる。
「ねえ。俺がなんで、こっちに引っ越そうって言ったかわかる?」
「……海のある町で、サザンの地元だし、会社の支部もあるからって……」
「もちろんそうだけどさ。とにかく、東京からも幕張からも遠ざかりたかったんだよ。さすがに縁もゆかりもない湘南になんて、追いかけてこないだろうと思ってた。なのにあいつ、生活圏変えてまで……」
対向車線を走る車のカーライトに一瞬照らしだされた和佐の顔は、苦々しく、そしてとても悲しそうに見えた。
「結婚したいの? あいつと」
「それは……」
「うちの親がなんて思うかね」
ぐさりと刺すように言われて、また涙が出そうになった。
そんなことがわからないほど世間知らずじゃないけれど、現実的に想像するとくじけそうになる。こんな非常識な恋に走ろうとするわたしに、世間の風はきっと優しくない。
でも、思いだす。真先くんに抱きしめられたときの、気の遠くなるような多幸感。キスをするたびに脳が甘く痺れた、あの感覚。自分が何のために生きてきたか、全部わかったような気がした。
そして、わたしの頬に落ちてきた、この世の何より清らかなあの涙。
「普通じゃねーよ、おまえら」
「……普通なんて目指してないの」
きっぱりと、わたしは言う。
「何を言われてもいいよ。だって」
好きなんだもの、と言おうとして、はたと気づく。わたし、まだ真先くんに好きだと言っていない。出張前日に押しかけておいて、あんなにきつく抱き合っておいて、何をやっているんだろう。
「ずいぶんとご執心ですな」
言いかけた言葉を察したのか、和佐は脚を組み替えながら溜息混じりに言った。
こんな偽悪的な物言いをする人だったのか。
ひとつひとつの言葉に、そして
「俺がアサミと関わらなかったら、こんなふうにならなかったかな」
そうかもしれない。
和佐がわたしを傷つけることがなかったら、真先くんが心の音を聞かせてくれることはなかったかもしれない。そしてわたしは自分のもうひとつの気持ちに一生気づかないまま、和佐と結婚していたのかもしれない。
そう考えると、アサミの存在が急に今までと違ったものに思えてくる。
おかしな話だけれど、今、もしかしたらわたしは彼女に感謝すべきなのだろうか。
――いや違う。どんなに胸を
「それとこれとは、別々に語られるべきだと思う」
わたしは、慎重に言葉を選びながら言った。
タクシーはもう、見知った通りを走っている。
駅ビルが見えたとき、わたしははっとして叫んだ。
「あのすみません、そこで降ろしてください。もう、そこの角でいいので」
どろどろにもつれた話に無反応でいてくれた紳士的な初老の運転士は、突然指示されてびくりとしながらウィンカーを出した。
「え? ちょ、なんで」
「マックに行こうよ、和佐。お腹空いたでしょ、ね」
わたしは財布を取りだしながら言った。
「付き合って一度も一緒にマックに行ったことないもの。最後くらいいいじゃない。あたしお腹空いたから、行くよ」
困惑顔をしながら、和佐はわたしを制して支払いをした。
本当に、とても空腹だった。
実際、家を出てから長い時間が経っていた。
わたしはクォーターパウンダーのチーズのセットを注文し、ポテトをLにサイズアップしてもらった。
「……高校生のとき以来かも」
和佐が呆然とレジ上のメニュー表示を見上げながらつぶやいた。
平日の夜のマクドナルドは、中高生で賑わっていた。意外に親子連れもいる。奥まった席がちょうど空くところで、わたしたちはそこに腰を落ち着けた。
先にトイレを済ませ手を洗い、ふと鏡を見ると、涙でアイメイクがよれた30歳の現実的な顔がそこにあった。
指先を温めるように、カフェラテのカップを包む。和佐は、洗ってさらに除菌した手でポテトをつまんでいる。
身体に悪い、などと何かしら文句を言うかと思いきや、無言で食べ続けている。
そのままふたり、黙々と食事した。よもぎ蒸しでデトックスした身体が台無しだと思いながらも、そのジャンキーさがたまらなかった。
店内の喧騒が、逆にわたしたちをクールダウンさせてくれる気がした。
和佐も同じように感じていたのだろうか。ビッグマックを食べ終わったところで、
「……ごめんな」
と、突然ぽつりとつぶやいた。
「さっき、ちょっと意地悪言った」
「え?」
「うちの親、理解あるから問題ないよ。とやかく言うような人たちじゃないんだ」
和佐はポテトの残りを指先でもてあそびながら言った。とても子どもじみた仕草だった。
まじめで優等生でリーダー気質の和佐。本当にわたしは9年半も一緒にいたこの人のことを、いったいどれだけ理解していたのだろう。
「……そうなんだ」
「話したことなかったと思うけどさ」
和佐は除菌ティッシュで指先を一本一本拭いながら話し始めた。
「うちの父さんって、親友がずっと好きだった相手を奪うようにして結婚したんだ。母さんと」
「えっ」
そんな話は、聞いたことがなかった。
「『こころ』みたい」
漱石の、と補おうとしたけれど、それは不要のようだった。和佐は深くうなずいた。
「うん。『こころ』そのもの」
わたしははっと息を飲んだ。もしかして作中の「K」同様、その親友は自ら命を絶ったなんてことはないのだろうか。
「あ、自殺とかはしてないからね、その人」
和佐がわたしの表情を読んだように笑って言ったので、わたしは小さく安堵する。
「でも、
「え……そうなの」
「うん。その人の気持ちは周囲でも有名だったらしくて、だから父さんたちはみんなにさんざんなじられたんだってさ。人でなしだ、とか言う人もいたみたい。だから結婚式も挙げてないんだ、うちの親」
胸が痛んだ。
それならば、『こころ』の「私」同様、わたしは問いたい。恋は罪悪ですか――。
「だからさ、わかると思うよ、父さんたちは。誰かの恋人でも、どうしようもなく好きな気持ち。…真先はきっと、父さんに似やがったんだな」
和佐が淋しそうに笑う。その笑顔は胸を締めつけた。
隣りの席の女子高生が、バニラのシェイクをすすっている。ああ、あの雪の日に真先くんも飲んでいた。
「だから、問題は俺ですよ」
和佐は腕を組んで、わたしを見据えた。周囲の雑音が、急に遠のく。
「俺のこと、ちゃんと納得させて。それまであいつに連絡しないで」
和佐の瞳に、暗い情念の炎が揺れていた。
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