口実
あの後さらに伊佐野さんにも呼びだされ、あらためて直接雇用についての話をした。
「総務とも人事ともいろいろ相談して、私はそういう方向で考えているし、上もそれでいいって言ってくれてるんだけど」
「大変、ありがたいお話です」
ふたりだけの小会議室の壁に、声が反響する。
「ご結婚だってね」
少し保留にさせてほしい理由として、櫻井さんから伝えてもらっている。正確な事情はもっとずっと複雑だけれど、とても説明しきれない。
「まあ、ちょっとそれはどうなるかわからないんですけど」
「え?」
「あ、いやまあ、いろいろありまして」
「いろいろあるんだね」
伊佐野さんはそれ以上つっこまないでくれた。この人の、適度な距離の取りかたが好きだ。
手帳を見つめたまま、ペンをかちかちノックしている。モスグリーンのニットがとてもよく似合っている。
少し間ができたあと、伊佐野さんはおもむろに口を開き
「志賀がさ」
と言った。一瞬、どきりとする。
「あ、志賀さんね、CSの。同期なのよ。なんかさあ、派遣のままだと舘野さんの英語力の高さがもったいないって推薦してきたよ」
「え、え」
志賀さんがわたしを推薦? そんなこと何も聞いていない。
けじめをつけたあの日以降、カフェスペースで一緒にお茶することもなくなり、ほとんど接点がなくなってしまっていた。
「英検、準1級なんだってね」
「え、あ、はい、『準』ですが」
「TOEICは790だっけ?」
「はい」
たしかにそのことは、志賀さんに聞かれて話した。昔とった杵柄ではあるけれど。
「全然知らなかったよ、あたし。林さん、言ってたっけなあ」
入社のときの面接官は、伊佐野さんではなく人事担当者の林さんだった。
入社に際して履歴書や職務経歴書の提出はなく、派遣担当者が代理作成した簡単な資料を先方に見せるだけの形だった。わたしの語学スキルなどの情報が現場の上司となる伊佐野さんに正確に伝わっていなかったという状況は、充分考えられる。
「海外部門さ、忙しいけど刺激になるよ。ドイツ出張なんかもあるし。興味あるなら、楽しいよ」
「……忙しさとしては、どのくらいでしょうか?」
以前過労で倒れたことを、わたしは初めて伊佐野さんに話した。
結論はまだ急がなくてもよいらしく、わたしはほっとする。
「ま、できれば2月半ばには決めといてね。採用も絡むし」と念押しされたけれど。
席に戻り、志賀さんに御礼のメールを打った。わたしを伊佐野さんに売りこんでくれたこと。志賀さんには終始中途半端な態度しか取れなかったのに、としみじみ感謝しながら。
それから、スマートフォンを握り締めて立ち上がる。
真先くんと、話したかった。
正社員になることを、和佐よりもまず、真先くんに相談したい気がした。
そして――それから、次はいつ遊びに来るの? と。
いや、そんなの口実だ。わたしは自分の心に耳を澄ませる。
声が聞きたいだけなんだ。あのキスにつながる何かを感じたいだけだ。
工場内での携帯電話での通話エリアは限定されていて、わたしはその中のひとつを目指して廊下を小走りに進む。工場とオフィスの連結部分あたりに、それはある。
真先くんの就業開始は来月からだから、今月はまだ自由に過ごしているはずだ。名前を呼びだし、通話ボタンを押す。
真先くんは、すぐには出なかった。7コール目。8コール目。
諦めて折り返そうと思ったとき、
「……はい」
応答があった。わたしは自分の胸が痛いくらいどきどきしていることに気がついた。
「あ、あの、わたしです」
「うん、どした?」
真先くんは何事もなかったかのように普通のトーンで言った。途端に不安になる。いつもなら、風邪の具合を訊いてくれるところなのに。
「あ、えっと……今、話しても大丈夫?」
「別にいいけど」
驚くほどそっけない。わたしは羞恥のあまり顔に血が上るのを感じた。
やっぱり何もかも、わたしの勘違いだったのかもしれない。長谷川さんから聞いたことも。あの突然のキスのことも。
「年末に持ってきてくれた料理のタッパー、こないだ返し忘れちゃって。せっかく来てくれたのに」
「そんなのいつでもいいよ。あっごめん、やっぱ今急いでるからあとでいい?」
真先くんはぞんざいに言った。
うん、ごめんね、とわたしが言い終わるなり、電話は無造作に切られた。
和佐は、正社員の話を手放しで喜んでくれた。
「そしたらさー、俺がもしなかなか就職決まらなかったとしてもさ、由麻ががっつり稼いでくれてれば家計は安心だよね! 助かるなあ」
わたしが作ったドライカレーを食べながら、心から嬉しそうに言う。
たしかにそうなのだけど、なんだかそれは少し違うような気がした。
今までさんざん和佐に助けられて生活してきたくせに、わたしの中の何かが反発していた。
「福祉業界は引く手
「うーん、それがさあ……」
緑茶をすすり、和佐は声のトーンを落とす。
「業界的にさあ、やっぱり雇用条件はなかなか厳しいよね。こだわって探すとなかなかなくて。アサミのところは、わりかしいいみたいなんだけど」
和佐はさらりとアサミの名前を出した。わたしは匙を止めて彼を見つめる。
「とりあえず明後日、ひとつ面接行くよ」
「……へえ、どこ?」
「小田原」
「小田原かあ」
とりあえず、アサミの自宅方面とは反対方向であることにほっとする。同じ施設で働きたいなどと言いだされるのかと思ったのだ。
食後、一緒に式場のパンフレットを眺めた。WEBサイトで見たものと併せて、候補を4つに絞りこんだ。
この先の週末はしばらく、ブライダルフェアや個別相談が続くことになる。
「土曜日の場合、本番の挙式をご見学になれます、だって! すごいね」
和佐は手帳に書き込みをしながら、不自然なくらいはしゃいでみせる。
転職モードと挙式準備モードを両立できるなんて、器用だな。冷めた緑茶を淹れ直しながら、わたしはどこか他人事のように思った。
そうだ、わたしとアサミを両立できるくらいなのだから、この人はわたしが思っていたよりずっと器用な人なのだろう。なんだかんだでいつも、自分の意志を押し通してしまうし。
気づけば、アサミの存在は当たり前の顔をしてわたしたちの日常に入りこんでいる。そのことも、もう諦念の境地で乗りきってゆくしかないのだ。結婚とは、生活なのだから。
そんな冷めた思いとは別に、恋人の明るい顔を見るのはやっぱり嬉しくて、わたしも手帳にブライダルフェアの予定を書き込んだ。
ふたりの布団をぴったりとくっつけて、セックスをした。
年が明けてから初めてだった。
闇の中で和佐にやさしく下着を剥ぎ取られながら、わたしは目を閉じる。
これでいいよね、真先くん。
わたしは自分の浅ましい気持ちに蓋をした。
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