不都合な心

 考えていた。初めて真先くんのことを、男の人として。

 和佐の弟でなく、小平こだいら真先というひとりの人間として。

 ――――初めて?

 それすらももう、よくわからない。


 突きつめて考えれば、思いあたることばかりだった。

 わたしの嗜好や習慣を熟知している真先くん。何度も車で迎えに来てくれた真先くん。時に、和佐よりもわたしの身を気遣ってくれる真先くん。

 もしかして、もしかすると。わたしたちの引越しを追うように隣町に越してきた理由さえ、わからなくなってくる。

 どこから掘り起こして考えても、ぴたりと同じ結論に行き着いてしまうのだった。

 きっと、もう、目を逸らしてはいけない。

 いつも飄々ひょうひょうとしているように見える真先くんの内側が、実は熱い想いでいっぱいだったとしたら。

 そう考えるだけで、胸が張り裂けそうになる。


 何よりもわからないのは、自分の気持ちだった。

 鉱山の岩盤の中に閉じ込められた採掘者にそっとロープを下ろすように、わたしはわたしの心の深遠におそるおそる手を伸ばす。

 一対一で俺のこと考えてみて。自分の属性に引きずられないで、俺のこと単独で見て。ふたりで会った最後の日に志賀さんに言われたことを思いだす。

 それにならって真先くんのことを考えてみると、わたしにとって――わたしと和佐にとって不都合な真実が浮かび上がってくるような気がしてきて、怖かった。

 真先くんと出会って過ごした、たくさんのまぶしい時間のこと。

 真先くんを交えて過ごすことで、和佐との時間がより豊かになった。

 真先くんのおかげで行動範囲が広がったし、真先くんの吹かせる風のおかげで世界がうんと広く、鮮やかになった気がした。

 遊びにきた真先くんが帰ると、いつも心に穴があいたように淋しくなった――その後いつも和佐に抱かれて、その淋しさをかみしめることもできずにいたけれど。

 アサミの出現以降のこの5ヶ月ほどの日々、誰よりわたしを大切にしてくれた人は誰だろう。

 わたし自身、一緒にいていちばん心が喜んでいた人は誰だろう。

 そしてどうして今、わたしはこんなにも胸が痛く――痛いだけではなくて、甘やかにうずくのだろう。


 もしかしたらわたしは無自覚に、ものすごく残酷なことをしてきたのではないだろうか。

 真先くんに、そして和佐にも。

 とても、長い間。


 和佐は思ったよりも早く帰宅した。

 チャイムを鳴らされても、わたしは布団から出なかった。

「ただい、ま」

 夕方なのに電気もつけずにいるのをいぶかしんで、和佐はうかがうようにそっと部屋に入ってきた。

「……え!? 由麻、寝こんでたの?」

「うん。おかえり」

「早く言ってよ。LINEの返事もくれないし、心配するじゃない。そんなに風邪ひどかったの? 早く教えてよ」

 慌てた様子でコートを脱ぎ、鞄を下ろす。その中からウィルキンソンの炭酸水のPETボトルが取り出されるのを、わたしは横目で見ていた。

 PETボトルをキッチンにあるごみ箱に捨てに行ったらしい和佐は、「あれ?」と声を上げた。

「誰か来たの?」

 シンクにある昼食の残骸に気がついたらしい。寝室に顔を出してたずねる。

「うん。真先くん」

「……あ、そう」

 和佐は温度のない声で言った。

「なんか予定が変わって、マルシェに行けることになったから行ったんだって。わたしたちと合流しようと思って連絡くれたんだけど、和佐は出かけててわたしは風邪で寝てるって知って、心配してお昼ごはん買ってきてくれたの」

「そうなんだ」

 和佐は表情を見せないまま、洗面所へ向かった。がらがらとうがいをする音が聞こえてくる。

 わたしのところに戻ってきた和佐は、さっき真先くんが座りこんでいた場所に座り、わたしの額に手をあてた。

 薬用ミューズでしっかり洗われた、少しひんやりした和佐の手。健康的で代謝のいい和佐だから普段の手はもっと温かいけれど、外がよほど冷えていたのだろう。

 そんな寒い中、昼食を買って運んできてくれた真先くんのことを思った。

「ん、やっぱ熱いね。熱測ってる?」

「うん、38.4℃だったかな」

「えええ、明日会社行けそう? 休んだら?」

「そうだね。様子見る」

「他は? 辛い症状ない? 食欲ある? 俺、雑炊でも作るから」

「……和佐」

 慌しく立ち上がりかけた和佐に、わたしは声をかけた。彼が振り向く。

「わたしさ、酔っ払って真先くんにキスしたことがあるんだってね」

 和佐は硬直したように見えた。

「すっかり忘れてたけど、たしかにそんなことした気がするの。お酒のせいとは言え、無意識って怖いね」

「忘れていいよ、それ」

 和佐は急に作ったような笑顔になって、きっぱりと言った。

「あいつ俺に似てるから、つい間違えたんだろ。気にしなくていいよ」

 会話を打ち切って、和佐はすたすたとキッチンへ行ってしまう。

 どうして和佐に「許可」されなければならないのだろうと思いながら、その後ろ姿を見送った。

 さっきまでアサミとふたりでどんな会話をしてきたのか、たずねる気にもなれない自分がいた。


 伊佐野さんに連絡を入れて翌日は会社を休み、その次の日に出社した。咳はだいぶおさまったけれど、念のためマスクをかけて。

 溜まったメールや書類をせっせとさばいていると、派遣会社の担当の櫻井さんから電話が入った。本日午前中にご訪問いたしたいのですが、と言う。

 3ヶ月ごとの契約確認は先月済ませているし、そのときにわたしの近況聞き取りもたっぷりしてくれているのに、何だろう。

 去年やらかした発注ミスのことを思う。伊佐野さんに何も変わった様子はなかったけれど、もしかしたらもう、わたしを不適任だとみなしているのではないだろうか。

 それとも、わたしの漏らした待遇への不満が、結局伊佐野さんの耳に届いたのだろうか。

 不安に怯えつつ櫻井さんの来社時刻を迎え、わたしは来客用コーナーへと向かった。


 櫻井さんの右手の中指には、やっぱりマスカットのような石のはまった指輪があった。

 うん、あれは絶対にペリドットだ。わたしは確信を強める。

「昨日、お休みされてたんですよね。ご体調大丈夫ですか?」

 マスク着用のわたしに櫻井さんはたずねる。ネイビーの細身のスーツが、今日もとてもよく似合っている。

 ええ、はい、もう。答えながら、早く用件を知りたくてれた。

「えっとですね、本日ご訪問しましたのはですね」

 いつもの大判の手帳を広げながら、櫻井さんは言った。わたしは身構える。

「舘野さんさえよろしければ、4月以降、直接雇用の形でどうかというお話を伊佐野さんよりいただいておりまして」

 わたしは驚いて、え、と変な声が出た。

「要は正社員にってことですね。なんかあれですよね、国内にも工場が増えたそうですけど、海外にももっと増えるそうで」

「え、ええ、そうみたいです」

 急なことで、頭がついてゆかない。

「海外部門の方が伊佐野さんお一人で回しきれなくなりそうなので、人事の方で配置の見直しがあったみたいなんですよ。それで伊佐野さんとしては、舘野さんにご自分の右腕になってほしいみたいなんです」

 櫻井さんはわたしをのぞきこむようにして、にっこり笑った。

「え、でも、今のわたしの……国内の購買は」

「そちらはまた新規で派遣の方を採られるようです」

「はあ……」

「舘野さん、今まで語学力の方をあまり発揮する機会がなかったかと思うんですけど、海外部門になったらかなりやりがいあるんじゃないでしょうかね。TOEIC、800前後でしたよね?」

 櫻井さんは、これがわたしにとって良い話だと信じて疑いもしない様子だ。

 たしかに、願ってもみない光栄な話だ。しがない派遣社員から正社員に転身できれば、もしも和佐と別れてひとりで生きることになったとしても、生活してゆけるはずだ。

 そんな想定をしてしまう自分に戸惑いながらも、わたしは考える。年末遅く、または年始早くに届いたたくさんの業務メール。あれを送った人たちのことを。

 わたしの浮かない表情に気づいて、櫻井さんがおや? という顔をする。

 そして、

「あれっ、ご結婚なさるんですか? もしかして」

と華やかさのにじむ声で訊いてきた。机の上に置いたわたしの左手に視線が注がれている。

「あ、ええ、えっと、はい……」

 歯切れ悪くもごもごと答えると、

「おめでとうございますー! いやーん、ご予定いつなんですかー?」

仕事のできるビジネスウーマンから急にひとりの20代の女性に戻ったようなあどけなさで、櫻井さんははしゃいだ声を出した。

 説明のつかない憂鬱が、わたしの胸を塞いでいた。

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