フレンチトースト

 翌日曜の朝、起き上がろうとすると身体の節々が本格的に痛んだ。頭痛もひどいし、喉も腫れているような気がする。

 それでも、最近和佐に料理をさせっぱなしな気がして無理やり起き上がる。和佐は昨夜も遅くまで調べものをしていたらしく、まだ寝ている。セミナーには間に合うのだろうか。

 顔を洗って部屋着に着替え、生協で毎週届くように手配している無添加の食パンを使ってフレンチトーストを焼いた。

 大きな皿を2枚取りだし、ウィンナーやミニトマトと一緒にカフェプレート風に盛り付ける。小さなスープマグに、インスタントのコーンポタージュを作って添えた。

 朝は必ず納豆ごはんの和佐だけれど、なんだか強制的にフレンチトーストを食べさせたいと思った。

 コーヒーも淹れた。しばらく使っていなかった、ミル挽きの大型のものだ。豆がごりごりと渦巻きながら粉砕されてゆくのを見ていると、不思議と心がいだ。

「……あれ。おはよー」

 和佐が起きだしてきて、ふたり分用意されたフレンチトーストに気づく。

「おはよう。一緒に食べよ」

「ん、うん。ありがとう」

 朝、納豆を食べないとなんだか身体が落ち着かないのだと、和佐は言っていた。わたしがパンやシリアルを選ぶ朝も、彼はいつだって納豆ごはんを好み、炊飯予約をしなかったときもタッパーで冷凍してあるごはんをレンジで解凍して食べるのだ。

 反発すればいいじゃない。ほら。半ばそれを期待しながら、わたしは思う。

 洗面所に行って戻ってきた和佐は、

「たまにはいいね、こういう朝食も」

とおそらくは心にもないであろうことを言いながら席につき、黙々と食べ始めた。このくらいの違和感も口に出せないくらい、アサミとのことでわたしに気兼ねしているのだろうか。

 結局昨夜のLINEは何の用事だったのか、今更知りたくなったけれど、もういいや。もう知らない。わたしもやけくそでフォークとナイフを動かす。

「蜂蜜かける?」

 わたしが勧めると、

「いや、いい、いい」

 と強張った笑顔で拒否した。

 わたしはこれ見よがしにたっぷりかける。その勢いでコーヒーにも蜂蜜を入れ、牛乳も注ぎたしてハニーラテにした。喉の痛みには蜂蜜が効くし、カフェインは頭痛を緩和するはずだ。

「今日、何時からだっけ」

「10時から。午前挟んで午後の部もあるんだけど、せっかくだし行ってきていいかな」

「別に許可とらなくても行ってきなよ」

「アサミも来るんだ」

 わたしは驚いて朝食から顔を上げた。

「昨夜、年始の挨拶が来たから、俺がこれから児発管じはつかんを目指すこと伝えたんだ。そんで今後のこと含めていろいろ話してたら、アサミも今日、このセミナーの午後の部だけ行くつもりだったって言うから」

 よどみなく和佐は話す。シュミレーションしてきたかのように。

 なんだかおかしくなって、わたしは笑いだした。あの女は何がなんでもわたしたちに関わってくる気なんだ、意地でも。もはや笑えてくるではないか。

 和佐の怪訝けげんな視線を受け止めながらくすくす笑っていると、急に喉の痛みを覚え、横を向いて咳こんだ。

「え、ちょっと、大丈夫?」

「平気平気。いいから、行って、きて」

 咳こみながらわたしは切れぎれに言い、笑い続けた。


 和佐が家を出たあと、熱が出てきた。

 37.8℃。微熱の範囲だし、インフルエンザとも違うのだろうけれど、とにかく全身がだるい。

 和佐が行きがけに回していった洗濯物を気力だけで干してベランダに吊るしたあと、昨日買った文庫本と一緒に布団に潜りこんだ。

 和佐と合流したアサミは、きっとまた花のように笑うのだろう。和佐はその笑顔を記録するように見つめるのだろう。わたしの知らない専門用語をたくさん使って、いきいきと会話するのだろう。

 そんなよけいな想像をしないように、わたしは徐々に物語の世界へ没入してゆく。わたしと同世代の女性である主人公の苦難を自らに重ねて考えてみる。

 主人公の恋人は、なかなか薄情だ。イラストレーターとして名声を得て世に出るうちに、だんだん恋人の扱いが雑になってゆく。自分とは異なる人生を送る主人公に、いつのまにか感情移入していた。

 じーん。じーん。

 枕元で、電話が鳴った。文庫本を伏せて、着信画面を見る。真先くんだった。

 何かが一瞬わたしをためらわせて、でもすぐに通話ボタンを押した。

「もしもーしっ」

 2週間ぶりに聞く、真先くんの声。それはわたしの鼓膜にやさしく響いた。

「……もしもし」

 けほっ、と続けて咳が出た。

「あれ、風邪?」

「うん、ちょっと。明けまして、おめでとう」

「遅れたけど、明けましておめでとうございます。っていうか、由麻さん」

 咳こみが止まらなくなった。

「やっと、言えた、年始の挨拶。全然、連絡、くれないんだ、もん」

 久しぶりに話せるのが嬉しくて、咳こみながらも言葉を継ぐ。

「ちょっとちょっとちょっと。大丈夫なの? 熱は? 兄貴は?」

「大丈夫、38℃も、ない、から。かず、さは、セミナーに、行った」

「セミナー? 何の? 宗教? マルチ?」

「あ、そこからか」

 なんとか喉を落ち着かせて、わたしは元日から今日に至るまでの経緯をかいつまんで話す。和佐の転職希望、入籍延期、そして今日のセミナーとアサミのこと。

 これ以上真先くんを巻きこみたくないという気持ちと、関わってもらえて嬉しい気持ちとがないまぜになった。

「……」

 絶句する真先くんの背後から、陽気な音楽が聴こえた。

「真先くん、今どこにいるの?」

「……あっうん、やっぱりマルシェ行こうと思って、もう会場」

「え。うそ」

「合流できるかと思ったんだけど」

 海風の吹く草の上でわたしたちを探す真先くんを思って、胸が痛んだ。年末の"あの"ことなどなかったように話してくれる真先くん。

「そうなんだ。行き違いになっちゃってごめんね」

「由麻さん、ちゃんと昼食べた?」

「え、あっ、もうそんな時間か」

 今頃もう、和佐とアサミは合流しているかもしれない。お昼は一緒に食べるのだろうか。知らない。知るもんか。

「寝こんでるの? もしかして」

「あ、うん。いやたいしたことないんだけど、ちょっと全身がしんどくて」

「まじか。くそ兄貴」

 真先くんは悪態をついて、

「せっかくだから、ここで何か買って持っていくよ。何食べたい?」

とさらりと言った。


 何もお構いなくね、病人なんだから寝ててね、と言われたけれど、もうあの悪夢の大晦日のような失敗はごめんだった。

 部屋中にざっと粘着テープを転がし、見苦しいものがないか確認する。

 ごく簡単に薄化粧を済ませたとき、チャイムが鳴った。

「うぃーっす」

 フード付きのジャケットを着た真先くんが現れた。至って通常モードである。

「うぃーっす。ありがとうね、ごめんねいろいろ」

 わたしは勝手にどきどきしていた。真先くんの目を直視できない。

「身体、大丈夫? 食べれそう? 好きそうなもの、いろいろ買ってみたけど」

 真先くんは、いつものようにするりと靴を脱ぎ、すたすたと上がりこんでくる。

 わたしが意識しすぎだろうか。あれから長谷川さんの言葉が頭を離れてくれないのだけど、わたしの勘違いなのだろうか。

 地元のレストランのタコスに、冷やし担担麺。ぶどうのスムージーまである。好きなものばかりだ。体調が良くないせいか、嬉しさと安心でふいに泣きそうになる。どうにも情緒不安定だ。

 結局"あの"ことには触れないまま向かい合ってお昼を食べる。朝の残りのコーヒーを振るまおうとしていたら、熱が上がってきた。

 38.4℃。

 慌てた真先くんに急かされて、半ば強制的に布団に入る。真先くんはテーブルの上をざっと片付けてくれたあと、わたしの横にちょこんとあぐらをかいて座りこんだ。

「……真先くん」

 何か言わなきゃ、というより、どうしても今、何か言いたい気分だった。

 口を開くと、また咳が出た。頭痛と関節痛は朝よりいくらかましになっている気がするけれど、どうにも全身の倦怠感がしんどい。

「無理して喋らないで」

 やさしく制するように真先くんは言った。

 風邪のせいで気持ちまで弱っているのか、なんだか胸がいっぱいになる。自分で自分がわからなくなる。真先くんの包容力の前に、子どものような気待ちになっていた。

 ブランケットを顎まで引き上げて視線を宙にさまよわせていると、枕元に置きっぱなしだった文庫本を拾い上げた真先くんが

「あ、角田光代だ。俺も好き」

と嬉しそうに言った。

「え、うそ。角田光代好きだったの?」

「うん。特に旅行エッセイは全部読んでる。ってか持ってる」

「そうだったのか。うち、小説なら全部あるよ」

「お、まじかー! じゃあさ、丸ごと貸し合いっこしようよ」

 子どものように無邪気に真先くんは笑った。わたしも笑う。

 ふと、ができた。

「……なんか、疲れたな」

 ぽろりと、胸の奥から本音がこぼれた。

「ひどいよね。今頃、彼女と会ってるんだよ。ふたりだけで、わたしにはわかんない話してるんだよ」

 今までどんなに辛い局面でも、積極的に真先くんを味方につけようとしたことはなかった。けれど、疲れきった心が勝手に喋りだし、止まらない。

「今は友達だって言うけどさ、たくさんデートして……キスとかしてたんだよ、何度も。そんな相手と同じ職業目指すんだって。結婚を遅らせてまで、やりたいことなんだって」

 つーっとひと筋、涙が頬を伝って流れた。

絶対泣かないと決めていたのに。慌てて、右腕で目を覆った。

 真先くんにじっと見つめられている気配を感じた。

「……由麻さんだって、他の男とキスしたじゃん」

 突然の言葉にわたしは意表を突かれ、半泣きの顔を晒して真先くんを見た。

 一瞬、志賀さんとのことを知っているのかと思ったけれど、何か違うニュアンスを感じとった。

「は? 誰と……」

「俺」

 事もなげに、真先くんは言った。わたしは瞠目どうもくする。

「やっぱり覚えてないんだ。ひでえなあ」

「え? え? え?」

 わたしはみっともないくらい動揺した。まったく記憶にない。ないけれど、何かが引っかかっている。

「……いつのことを言ってるの?」

「ほら、内モンゴルの酒飲んだじゃん、俺んちで」

 記憶の扉がかちりと開いた気がした。

 そうだ。あの日、真先くんの自宅でアルコール度数61の白酒ばいちゅうを飲んだあと、部分的に記憶がないのだ。

「平気平気って言いながらうまそうに飲んでたんだけど、急にふっと俺に倒れこんできて、支えようとしたら、由麻さんが俺に」

 ……!

 驚きすぎて、わたしは固まったように真先くんから視線を外せない。

「そのまますうすう寝ちゃって、起きたら何もなかったようにけろっとしてるんだもん、ひどいよね」

「……そのとき、和佐って…」

「いたよもちろん。本人が思いださない限りはなかったことにしてくれって、懇願された」

「……」

「ほんとに覚えてないんだね」

 真先くんは深く吸い込まれそうな瞳でわたしを見つめ、

「じゃあ、もう一回しとく?」

と言った。

 あっ、と思った瞬間、唇が降ってきた。


 ――――ばたん。

 放心状態のわたしを置いて、真先くんは無言で部屋を出ていった。

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