富士の雪
志賀さんにもらった象灰色のカシミヤのマフラーは、わたしの黒い冬用コートによく合った。
なんとなく和佐に悪いような気がして使わずにしまいこんでいたけれど、アサミと関わり続けると宣言した彼に、もう遠慮など必要ないと判断した。
同じく志賀さんにもらったハンドクリームを机上に置き、LIPTONのミルクティーをすすりながら、PCを立ち上げて今年の業務を開始する。
既に全国の工場から発注依頼や各種お知らせのメールがどっさり届いており、うっ、となる。
そのほとんどは年末最終日の定時後に届いているものだけれど、今朝7時前に送られているものもあり、みんないったい何時に出社しているのだろうと驚いてしまう。わたしですら、充分早く来ている方なのに。
正社員はフレックスができてうらやましいと思っていたけれど、配属場所や職位、特に工場長ともなると、結局は朝から晩までひた働くことになるのか。そう考えると、派遣社員である自分の身の上が至極身軽なものに思えてくる。
来る日も来る日も終わりの見えない残業で、プライベートな予定を立てるどころか、帰宅してほんの数時間死んだように眠るのが精いっぱいだった、商社勤め時代を思いだす。
三半規管に異常をきたし、顔を動かすだけで吐き、ぐるぐると渦を巻くようなめまいに襲われ、踏みしめているはずの地面がふわふわと綿菓子のように柔らかく感じられた日々。
今もどこかであんな思いをしている人がいるのだろうかとたまに考えることがあるけれど、この会社の人たちだっていつ過労で倒れるかもわからないのだ。
そんなことをもやもやと考えているうちに照明が付けられ、オフィスに人がそろい始める。
伊佐野さんも出勤してきたので、年始の挨拶を交わす。アメリカのお土産だというブラウニーをもらった。きっと、恋人に逢いに行っていたのだろう。
神戸工場の本格稼動開始日が迫っており、午前中はほとんどその関連の対応に追われた。
業務に集中していれば、余計なことを考えなくて済む。
左手の薬指に光り輝く婚約指輪が、今はひどく虚しく感じられることも。
長谷川さんと会うのは、なんだかとても気まずかった。
あのたこ焼きパーティーの帰りに真先くんにそれぞれ自宅まで送り届けてもらったあと今日に至るまで、長谷川さんからいっさい連絡はなかった。
なのでわたしからも、「パーティーお疲れさま。わたし食あたり起こしちゃったみたいだけど、そちらは大丈夫だった?」などと気軽にLINEを送ることさえためらわれていた。
こんなときに限って、丹羽さんは家族旅行のために今日も有休を使い、年始休暇を延長していた。
「明けましておめでとう」
社員食堂で顔を合わせるなりわたしは声をかけた。おめでとうございます、と彼女も返してくれるけれど、その表情はどこか固い。
共用のポットで緑茶を注ぎ、いつもの席にふたり並んで仕出し弁当を食べる。今日は酢豚弁当だ。少し酸味がきついし油っぽいけれど、無心に口に運ぶ。
富士山はペンキでぺたっと塗られたように白く冠雪している。あの中に登山者がいたりするのだろうか、などと考える。
「あの、パーティー参加してくれて、ありがとうね」
おもねるような言い方になってしまった。長谷川さんは無言で咀嚼している。
やっぱり、何かわたしに対して気を害しているのだろうか。年下とはいえ入社時期はわたしより早いし、何しろこんな美人なので、どうにも
「わたし、あのあと食あたりになっちゃって、大晦日まで寝込んじゃったんだよね」
「え」
長谷川さんがやっとこちらを見た。
「大丈夫だったんですか」
「うん、なんか最後に使ったホットケーキミックスがすごい古かったみたいで。それ食べたのわたしとあの人だけだから、長谷川さんは平気だったよね?」
「はい、何とも」
「よかった。上から下からと大変だったよ。あ、食事中にごめんね」
「いえ……」
長谷川さんはまた正面を向き、箸を進めた。気詰まりな空気が漂う。
「……真先くんとは、あれからどう? テントの中で、なんかいろいろお話できた?」
結局、わたしはそれを訊いてしまった。間を埋めるためもあるけれど、個人的にずっと気になっていたのだ。
長谷川さんは、小さく溜息をついてかしゃんと箸を置いた。わたしは身構える。
「舘野さん、あたしふられたんですよ」
「え」
喉の奥から変な声が出た。
長谷川さんは顔だけこちらに向け、まっすぐにわたしの視線をとらえる。
「一緒に
言葉をなくしたわたしに、長谷川さんは用意してきたかのように淡々と話す。
「信じられます? 6年以上も片思いしてるんですって。どんな人ですかって訊いたら、
長谷川さんは、わたしの目をじっと見た。
「舘野さん、本当に心当たりないですか?」
わたしは無言で視線を正面に戻す。
富士山の雪が、目にまぶしかった。
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