諦念

 週が変わり、仕事始めの日を迎えた和佐は、さっそくその日のうちに上司に退職意志を伝え、転職活動体制に入った。

 いつのまにか資料請求しておいてくれた様々な結婚式場のパンフレットに混じって、福祉関係の説明会やシンポジウムなどの資料もぽろぽろと届き始めていた。

 本当に、転職するんだな。

 それらを目にするたび、わたしは頭がぼうっとなる。

 入籍も挙式も後倒しにして、転職先で落ち着くまで両親に報告もしないで。

 和佐にとって、わたしとは何だろう。

 何に引き換えても得がたいほどの存在ではないのではないだろうか。

 消灯し、わたしが先に布団に潜りこんでも、いつまでもかしゃかしゃとPCのキーボードを叩いている和佐の背中が、急に世界でいちばん遠い場所にあるように思えてきた。

 じーん。

 枕元のスマートフォンが振動して、バナー表示が表れ、姉の恵麻えまからのメッセージと写真が届いたことを知らせる。表示をスライドして「開く」をタップし、全文を開いて読む。

 定期的に届くマタニティーフォトだった。

 予定日は3月の頭と聞いているけれど、今にも産まれそうなほど大きくお腹がせりだしている。

「早く出してすっきりしたい〜!」という文章に苦笑して、「便秘じゃないんだからw」と返信を打つ。

 そろそろ、御祝いの品を買っても大丈夫な頃だろうか。

 モールやデパートへ買い物に行くたびにベビーグッズコーナーを探し、かわいい品々にうっとりしていたのだけれど、何しろ出産は直前までどうなるかわからないと姉自身が言っていたので、万一を考えて買い控えていたのだ。

「和佐」

 闇の中で、わたしは恋人の背中に声をかける。

「んー?」

 和佐はせわしなくマウスを操作したまま生返事をした。

「もしだよ、もしわたしに赤ちゃんができてたらどうする?」

 和佐はがばりと振り向いてわたしを見た。

「え……、できたの!?」

「違うよ、今生理中なんだから。もしもの話だよ」

「そうだよね、避妊してるしね。ははは、びっくりした」

 和佐はあからさまに安堵してPCに向き直りかけ、またすぐにわたしを見た。

「で、えっと……?」

「もし妊娠していたら、すぐにでも結婚した?」

 近所の学習塾の看板が投げかける青い光が、和佐の困惑した表情をかすかに照らしだした。

「えっ、そりゃあまあ、もちろんそうするよ。そうするしかないじゃない」

「……なんか、義務感が」

「義務じゃないよ。そりゃ、できたら嬉しいに決まってるじゃない。俺だっていずれ絶対、由麻との子どもほしいんだからさ。しかも子ども大好きな俺がさ、自分の子どもほしくないわけないじゃない」

 畳みかけるように言われて、口をつぐむ。

 じゃあなんで、このタイミングで安定企業を辞めて転職しようとしているの。子どもを産み育てることより、やりがい優先なんじゃないの。女の身体はいつまでも自在に妊娠できるわけじゃないんだよ。

 言いたいことはたくさん湧いてきたけれど、それに対する和佐の反応を思うとだるくなり、わたしはおやすみ、と声をかけて目を閉じた。


 日々は淡々と過ぎていった。

 次の日曜日はマルシェに行こうと自分で言っていたくせに、和佐は直前になって予定を変更した。

「ごめん。やっぱこれ、どうしても行きたいんだ」

 市役所でもらってきたというチラシを見せてくる。

 またいつのまに仕事を調整して市役所へ行ってきたのだろうと思いつつ、その紙面に目を落とした。

 発達障害についてのセミナーで、著名な専門家による講演があり、最新の研究を踏まえた貴重な話が聞ける機会だという。会場は横浜。

「やっぱさ、俺デイケアの実務経験ないからさ、転職先でいきなり即戦力ってわけにはいかないけど、最低限の知識は身につけておきたいんだよね」

「いいんじゃない、行ってくれば」

 どことなく投げやりな口調になってしまったのを、和佐は敏感に察知した。

「あのさあ由麻、俺一応、ふたりの将来のためにがんばってるんだからね。一日でも早く落ち着いて結婚するためにさ」

「がんばってないなんて言ってないじゃない」

「そうだけど……なんかずっと不満気だから」

「そんなことないよ。応援するって言ったじゃん。今、なんかちょっと身体だるいだけ」

 少しだけ関節と喉に痛みがあり、風邪の予感がするけれど、仕事帰りに駅ビルの書店で大好きな作家の文庫本を買い、浮き立っていた。新刊は漏れなくチェックしていたつもりだったけれど、見落としていた既刊があったのだ。

 明日はひとりでまったり読書でもしていよう。懸念事項をいったんすべて棚上げして、チャイでも飲みながら。

「だるいの? 大丈夫?……まさか」

「だから、違うって」

 もし本当に妊娠していたら、この人はどんな反応を示すのだろう。それはどちらかというと怖ろしい想像のように思えた。

 そのとき微かな振動音がして、和佐がスマートフォンを尻ポケットから取りだした。

 わたしは一瞬、違和感を見過ごすところだった。

 和佐のスマートフォンはもう、ダイニングテーブルの隅に置かれてはいないのだということ。

「ん、……ごめん、アサミだ」

 もはや驚きはしなかった。

 今年も絶対にまた絡んでくることは、容易に予想がついていた。それに関しては諦念ていねんの境地に達しつつあった。

 ただ、それに対応する和佐の緊張感のなさに、わたしは静かに打ちのめされていた。

 LINEを立ち上げた和佐は、トーク画面を開いて見せてきた。

「はい」

「いいよ」

ここ数日は、「あさみん」のTwitterを見ることさえ気が滅入って避けていた。

「見て。何もやましいことないから」

 和佐はわざわざ画面をわたしの前に突きだしてくる。けばけばしい絵文字やスタンプが目に入る。

「かずくん、今更だけどあけおめ☆」

 その一文を見ただけでわたしは拒否反応が起こり、

「本当にいいから」

と叫んで自室兼書斎に逃げこんだ。

 関節と喉の痛みに加えてひどい頭痛が始まり、わたしは浅い呼吸を繰り返した。

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