more complicated
鞄から取りだすパスケースが、びっくりするほど冷たい。
その中にはたっぷりチャージしてあるSuica。
それを改札に軽く叩きつけ、再び鞄にしまいこみ、ホームに立って電車を待つ。入線。乗りこむ。座れずに、車両の隅に立つ。流れゆく景色。誰かの香水のにおい。
赤ちゃんを抱いている女性がいて、さっき別れる直前まで抱っこさせてもらっていた誉くんの柔らかな肌の感触が手のひらに蘇った。
完璧な人なんていない。
よしのの言葉にすがるように、わたしは和佐をもう一度信じてみようと思った。
この先、永い人生を共にするならば、もちろん妥協なんてしたくない。
けれど、わたしこそ和佐が注いでくれたたくさんの愛情に見合う人間なのだろうか。
めちゃめちゃな恋愛関係の中で生きてきたわたしを、めまい症で倒れたわたしを、そしていつからか派遣社員としてしか生きられないわたしを、救い支えてくれたのはいつだって和佐だった。
――帰ったら。
赤ちゃんを抱いた女性が空いた席に座るのを見てほっとしながら、わたしは思い定める。
帰ったら、和佐に好きだと言おう。
当然のことかもしれないけれど、アサミのことがあってから、一度もわたしから和佐に愛を告げていない。
求める一方でなく、ちゃんと自分の気持ちを伝えて、仕切り直そう。婚約を取り消したわけでも何でもなくて、後倒しになっただけなのだから。大切な人の夢を、パートナーとして応援しよう。
混みあう車内でそう決意しつつ、スマートフォンを取りだす。すっかり慣れた滑らかなアクションで、「あさみん」のTwitterをチェックする。
移動中は必ず鞄から文庫本を引っぱり出して没頭するのが習慣だった自分は、アサミに関わることで変わってしまった。そのことに一抹の悲しみを覚えながらも、手の動きを止めることができない。
「あさみん」のトップページから前回チェックしたあたりまでスクロールでぐんと押し下げ、直近のつぶやきへとゆっくり遡りながら読んでゆく。
「あけおめ〜☆ 年末の腹下し(泣)もおさまって、一人と一匹、無事に年越ししましたあ(^∀^)今年も弾けるぞい!」
変なポエムはないけれど、いつものアサミ節が炸裂している。そのことになぜだか安堵を覚えた。ばかなことを書いていない方が不安になる気がするのだ。
けれど、その後の愛犬ツイートに続けて書かれた最新のつぶやきに、心臓がどくんと鳴った。
「今更だけど、たこパの感想。Kくんはまだ、あたしのことを好きだと思う。」
「おかえり〜」
玄関の扉を開けると、和佐がLINEで予告していた通り、ビーフシチューの香りが部屋に満ちていた。
「……ただいま。いいにおい」
「昼から煮込んでるから、めっちゃいい感じだよ」
「ありがとう。嬉しい」
「いっぱい食べて明日からまたがんばってね」
「うん、がんばれそう」
そういえば、出かけて帰ってくるわたしを和佐が駅まで迎えに来てくれなくなったのはいつからだろう。そんなことをふと考えながら、うがい用のコップに水を注ぎ、うがい薬を垂らす。
「あれ?」
ダイニングテーブルの上に、雑貨や書類がいくつか積み上げてあった。
「あー、それ」
わたしが何か言う前に、和佐が説明にくる。料理の得意な和佐のためにいつかわたしがプレゼントしたエプロンを締めている。
「年末ちゃんと大掃除できなかったからさ、ちょっと
それだけ言って、また鍋の前へ戻ってゆく。わたしは和佐に寄せ集められたものをひとつひとつ確認する。
いつまでも踏み切れずにとってあった保険会社のパンフレットや、薄汚れてしまったマイクロファイバーのクロス、しばらく使っていない300円ショップのチープな小物入れ。そんな明らかに不要なものに混じって、学生時代にふたりで行ったセブ島の旅程表が入っているのが少し悲しかった。
旅程表を持ち上げると、その下に小さなパンダの編みぐるみが置かれていた。
「え、和佐、これ」
わたしは驚いて声を発する。
それは、わたしが「うさぎのしっぽ」のスタッフを辞めるときに新堂きらりがくれたものだった。絶対結婚してね、と言って。
「あ、それさー」
和佐が振り向いて、わたしが掲げているものを確認する。
「誰かからのお土産だっけ? なんかもう古いし、由麻の趣味ではないよなあと思って」
「え、や、でもこれ、きらりがくれたんだよ。手作りだよ」
え、と和佐が驚いてまたキッチンから顔を出す。
当時、和佐に見せたら「えー、ありがたいね」と照れながら笑ったではないか。それにわたしが紐を縫いつけキーホルダーのようにして、コルクボードに刺した画鋲に吊り下げていたのだった。
「そうだっけ?」
「そうだよ。何だと思ってたの?」
失望が隠せない。わたしはそれをずっと、和佐と結婚に至るまでの御守りのように思っていたのに。
「いや……、忘れちゃってたわ。ごめん、まじで。全然とっておいてくれてオッケーだから」
言い表せない違和感に襲われて、わたしは束の間言葉をなくした。
和佐、好きだよ。
そんな言葉は、少なくとも今夜はとても言えそうにない気がした。
和佐のビーフシチューはコクがあっておいしかった。だけどやっぱり薄味だった。
どうすればビーフシチューをここまで薄味に作れるのか、わたしにはわからない。
和佐のやや過剰なまでの健康への執着は、長谷川さんに指摘された通り不便を感じることもある。
けれど、和佐に合わせた生活をし、和佐に影響された習慣を持っているからこそ、わたしは標準より軽めの体重をキープし、肌や髪のトラブルとも無縁でいられるのかもしれない。
「あのさ」
食器を片付け、また明日から始まる早起きの生活に備えて準備しようとしていると、和佐が手招きした。
寝室に置いて共有しているノートPCで、何かサイトを開いている。
「ブライダルフェアの情報、いろいろ調べてたんだ。良さげなところいくつかピックアップしたんだけど、週末にでも行ってみない?」
和佐はわたしをPCデスクの椅子に座らせながら言った。
「わ……」
和佐が開いているタブをかちかちクリックしてみる。様々な挙式会場のページの色鮮やかな写真や文字が、目に飛びこんでくる。
気持ちが浮き立ったことは間違いないけれど、手放しで喜ぶことができなかった。まだ両親への報告もできない状況なのに、当事者だけでここまで具体的に進めてしまってよいものだろうか。
「ありがとうね。後でゆっくり見るけど……あのさ」
わたしは椅子に座ったままくりんと身体を和佐に向けた。
「ん?」
「あのさ、嬉しいけどさ、まだ頭がついてってないところがあってさ」
「言って」
和佐はわたしの頭に手を置き、愛おしそうに撫でる。
「入籍は、結局いつにするの? ブライダルフェアに行ったら、アンケートとかで必ず書かされるみたいだよ。基本情報として」
「うーん、あ、そっか」
和佐は指先で頬を掻きながら、
「じゃあとりあえずさ、5月3日とかにしておかない? 転職しても、たぶんそこは絶対休みだと思うし。もし間に合わなかったら、7月とかにしてさ」
ラフな感じに返されて、またしてももやもやする。大事な日取りの取り決めに「とか」なんて曖昧な言葉を使われると、不安になってしまう。
「……あとさ、アサミのことなんだけど」
和佐が身を固くした。
「本当に、大丈夫? その、
「それはない。絶対にないから」
わたしが言い終わるのを待たずに、和佐はきっぱりと言った。その瞳の中に嘘の気配を探したけれど、とりあえずは見つからない。
それでも、アサミの部屋で見せたあの表情はわたしの胸を締めつけ続けていた。そして、彼女のTwitterのあの言葉も。
「うーん……」
「由麻が不安になるのもわかるよ。全部俺のせいだから。……あ、ただ」
「ただ?」
和佐は、少し言いづらそうに顔を歪めた。
「これから福祉畑を歩くにあたって、いろいろと彼女から助言とかはもらいたいと思ってるんだよね。友達としてっていうか、先輩として」
わたしは黙って息を吐いた。PC画面の華やかなページが、一気にすべて虚しいものに見えてきた。
「……ごめん」
「これからも、関わり続けるってこと?」
「たぶん……。ごめん。なるべく頼らないでいいようにしたいけど、福祉業界で働いてる知り合いって今、周りにいないから」
「そんなの、リアルな知り合いに頼らなくたっていくらでも調べようがあるじゃない。ネットでも、書籍とかでも」
「なんか、今年から児発管になる条件がいろいろ変わるみたいでさ、規定が。現場の人じゃないとわからない話もあるし、そういうの、聞きたいんだ」
平行線だ。
完璧な人なんて、いないよ。よしのの言葉を再び蘇らせて、わたしはわたしの
きっと、アサミとのことはある程度のところで、自分の中で折り合いをつけてゆくしかないのだろう。
「それとじゃあ、あとひとつ」
話題が変わるのを察して、和佐の顔が緩む。
「真先くんに、フォロー入れなくていいの?」
「ああ……」
和佐は虚を突かれた顔をした。
「なんで放置してるの? 気まずいのはわかるけど、こんなの嫌だよ」
年末年始、わたしが帰省しない年はいつも真先くんが来て、3人でまったり年越しをするのが常だった。和佐の実家にお邪魔して過ごすときももちろん、真先くんも帰省してみんなで新年を迎えた。
「わかったよ。今すぐかけますよ」
和佐はいささか苛立ちをにじませた声で言いながらダイニングテーブルに置いてあったスマートフォンを取ってくると、敷いたばかりの布団の上にどすんとあぐらをかいて座った。その流れでスマホを操作し、耳に当てている。
「……あ、俺」
真先くんが応答したらしい。わたしは息を詰めた。
「明けましておめでとう。……うん。あのさ、次の……じゃなくてその次の日曜日さ、マルシェ行かない?」
和佐は"あの"話には触れずに、いきなり言った。
真先くんの最寄り駅の海岸近くで、毎月第2日曜日に青空マーケットが開かれている。手作り作家や地元のレストランがテントやキッチンカーを使って出店し、地元民で賑わう催しだ。数ヶ月に一度、真先くんを交えて訪れている。
「……持ってきてくれたタッパーも空いたから返したいし。……うん……あ、そう」
和佐は急に声のトーンを落とし、
「おまえも入社前で忙しいもんな。……うん、じゃ」
と電話を切ってしまった。
「真先、マルシェは行かないって」
「……そう」
心にぽっかりと空洞ができた気がした。わたしたちは、いよいよ真先くんに愛想尽かされてしまったのだろうか。そう思うと、泣きたい気持ちがした。
「ほっとけよ。子どもじゃないんだから」
和佐は布団の上にスマートフォンをぽんと放りだした。
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