完璧なんて

 それは彼がもうひとりの恋人の存在を告げたとき同様、相談ではなく報告だった。


 和佐の中で、転職の件はすでにかなり具体性を伴う計画になっていた。

 年明けにも上司に退職の意向を伝え、自分の後任を決めてもらい、業務の引継ぎをする。

 同時進行で、転職活動。

 きりよく年度末には退職。

 うまくゆけば新年度から、新しい職場に着任。

 双方の両親へは、転職先が決まって落ち着いてから結婚の挨拶をしたいのだという。

 たしかに、一時的にとはいえ無職になるかもしれない人へ娘を嫁がせるとなると、いくら和佐を気に入っている両親でも少し険しい顔をするかもしれない。けれど……。

「だから、ちょっとだけ計画を後倒しにする感じでさ」

 和佐はつとめて明るく言う。

「たとえばさ、5月くらい……俺が新しい職場で落ち着いて、季節もいい頃に入籍してさ、あ、7月の付き合い始め記念日でもいいね。結婚式は俺の誕生日でもいいし、間に合えば由麻の誕生日でも」

「間に合わないよ」

 わたしは言った。

「式場って、人気のところだと1年半くらい先まで予約でいっぱいなんだよ。準備だってすごいかかるから、普通は1年近くかけてやるものなんだよ。マタニティー婚のお急ぎプランとかだって、半年は設けてるんだよ」

「知ってる知ってる、そうだよね。ごめんごめん」

 和佐が笑うたび、逆にどんどん不安が増してゆく。

「だったらまあ、挙式のことはゆっくり計画することにしてさ。先に新婚旅行済ませたっていいし」

 ゆっくりなんてしていたら、また何が起こるかわからないじゃない。

 わたしは冷めてしまった炒め物とごはんを無言で口に運び、キッチンへ食器を下げに行った。

「……福祉業界って常に人手不足だから、転職自体はそんなに大変じゃないはずなんだ。ただ児発管じはつかんはさ、一朝一夕になれるもんじゃなくてさ」

 和佐がついてきて、キッチンの壁にもたれて話し続けるので、わたしはシンクの前から動けなくなった。

 児童発達管理責任者になるには、定められた実務経験と研修の受講が必須。それはわたしも自分で調べたときに得た知識だ。

「福祉の現場で5年以上働いた経験が必要なんだよね。だから、1日でも早く働き始めないとっていうのがあって。最初は普通にデイサービスの一職員だから、スタート時点からしばらくは、給料も安くて由麻に迷惑かけると思うけど」

 アサミの部屋でアサミが言っていたことを思いだす。苦労して児発管になったという話。和佐もそれを追体験することになるわけだろうか。

「ね、勝手だけど、わかってほしい。結婚前の最後のわがまま。ただの会社人間で終わりたくないんだよ」

 和佐の口調が懇願に近くなってきた。祈るような目でこちらを見ている。

「……だめって言っても、そうするんでしょう?」

 わたしはシンクの汚れた皿たちに向かって言う。

「もうそこまで細かく和佐の中で決まってるんなら、わたしに口を挟む余地なんてないじゃない」

「……いや……」

「和佐の夢なら、応援したいよ。1日でも早く始めたいっていうのもわかった。でも和佐がその仕事に就いたら、わたし一生和佐の中にアサミの影響を感じ続けることになるけど」

「うー……ん……」

「それで幸せな結婚生活が送れるかっていうと……すごく不安」

「由麻」

 和佐が歩み寄ってきて、シンクに向き合ったままのわたしを背後から抱きしめた。

「必ず幸せにするから。俺と結婚してよかったって由麻が思えるように俺、めっちゃ頑張るから。だから」

 もっと何か言うのかと思ったら、和佐はわたしを振り向かせて顎を持ち上げ、新年最初のキスをした。

「ずるい」

 唇が離れたあとにつぶやくと、それを容認と受け取ったらしい和佐はほっとしたような笑みを漏らした。

 和佐は、ずるい。


「んんんんん……」

 楢崎ならさきは、何とも苦々しい顔をしたあとテーブルに伏せた。

「いやぁーーー……」

 よしのも眉間に指をあてたまま、言葉を失っている。

 年始休暇最終日、新年会を兼ねた楢崎の誕生祝いのため、久しぶりに3人で集まった。

 三浦くんが親戚の家に行っていて留守だというので、都内のよしのの自宅で3人、いやほまれくんと4人での昼食会となった。

 一度きりとはいえ体の関係があった相手の家庭にお邪魔するのは複雑な気分だったけれど、高速ではいはいする誉くんをつかまえて抱っこさせてもらうのに忙しく、とても感傷的になるどころではなかった。

 宅配ピザのアプリを使ってピザをとり、死ぬほど食べた。年末年始の予定はぼろぼろに崩れたけれど、今日をキャンセルしなくて済んだことだけは幸いだったとしみじみ思う。部屋にはまだ、チーズやバジルの残り香が漂っている。

 前回会ったときはゲル状の離乳食を食べさせられていた誉くんが、お子様用のプレーンなピザをむしゃむしゃと手づかみで口に運ぶ様子に、成長と時の流れを感じて胸が熱くなる。

 わたしがアサミと対面したり和佐の不貞を知って傷ついたり志賀さんとホテルに行ったりしている間に、この子はつかまり立ちや手づかみ食べを覚え、服のサイズも上がり、「まま」「おいし」などといった語彙を獲得しているのだ。そう思うと、自分というものがいい歳して些事さじに振り回される矮小わいしょうな存在に思えてくる。

「由麻がそんな苦しんでたとはさ。もっと早く言ってくれたらいいのに。電話くれたときとかさあ」

 よしのの口調は委員長時代を思い起こさせた。

「……ごめん。あまりにも、先が見えなすぎて」

「昔から、そんなにべらべら自分のこと喋るタイプじゃなかったもんね」

 楢崎が顔を上げ、わたしの手土産のクッキーに手を伸ばしながら言う。

 タイミングを逃し続けていたけれど、とうとうこのふたりに話を聞いてもらうことになったのだ。

 迷いながらもはめてきた婚約指輪に質問が集中し、自然な流れで今日のメインの話題はわたしの近況になってしまった――和佐とアサミをめぐる、諸々のこと。

「ぶっちゃけ……あたしだったら見切りつけるかなあ」

 楢崎の言葉にどきんとする。親友たちの忌憚きたんなき意見が聞きたかったくせに、いざネガティブなことを言われると、辛い。

「悪いけど……あ、気ぃ悪くしないでね。ぶっちゃけ、彼氏のどこがいいのかあんまりわからない」

「……」

 少なからずショックを受ける。

 でも、長谷川さんに「それ、辛くないですか?」と言われたときからわかっていた気もした。わたしやアサミを惹きつけてやまない和佐も、他の女性からしたら必ずしも魅力的な存在ではないということ。

「いや……そうかもしれないけど、わたしの主観で話したことだから、和佐に語らせたらもっと別の感想を持つかもしれないよ」

「このに及んで彼氏をかばう?」

 楢崎の呆れ声に、口をつぐむ。

「言っとくけどさ、一度浮気した男はまたやるよ。まじめな人ほど、はまっちゃうと怖いんだから」

 ぐさりときた。恋愛に関しては百戦錬磨である楢崎の言葉には重みがある。

 実際、9年間浮気のひとつもしなかった和佐のアサミへのはまりようは、元来まじめであるがゆえであるような気がしていた。

「まあ、それはあるかもしれないけど」

 部屋中を這いずり回る誉くんがひっくり返したおもちゃ箱を直しながら、よしのが言う。

 誉くんのいじっているBlu-rayデッキは、ボタンの上から養生テープが貼られていて、容易にボタンが押されないようになっている。

「それでも、カズサくんには誠意があると思う。もっといくらでもこそこそすることできたはずなのに、結果的にちゃんと全部話して、プロポーズもしてくれて」

「えーーーーー」

 わたしより先に楢崎が抗議の声を上げる。

「あたしはやだ! 体の関係だけで終わるんならまだしも、なんかそんな……心まで持ってかれてる感じのは嫌だ」

 友の言葉が刺さりまくって、わたしは下を向く。

「あのさ」

 乾いたチーズのこびりついたピザの空き箱を見つめながら、口を開いた。

「もしわたしが20代だったら……せいぜい25とか6なら、別れてたかもしれないんだけどね」

 ふたりは動きを止めてこちらを見る。わたしはグラスにミルクティーを継ぎ足す。

「なんか、すべてが今更なんだよね。やっぱりここまで来てこの人と結婚しないなんてもったいないって気持ちもあるし、今別れたら30代で一から相手探して、価値観り合わせて、結婚の意志確認して、ってやるのかと思うとぞっとする」

 言いながら、わたしは和佐といたいという気持ちの前にとにかく結婚したい気持ちが前提にあることを、今更ながら自覚した。でも、それのどこが悪いのだろう。

「……わかるけど、だからって目をつぶるのって、妥協じゃん。愛はどこよ? ここまで来たからこそ、こだわりたくね?」

 昨日30歳になったばかりの楢崎は、明るいレモンティー色に染めたウェーブの髪を後ろ手にまとめながら反論した。

 そういえばしばらく美容院行ってないな、と思う。週末にでも行こうかな。

「でもほら、結婚って生活だから」

 よしのが言った。

「9年に1回浮気するけどちゃんと自分のこと愛し続けてくれて、生活力もあって家事分担してくれる人なのなら、あたしはいいと思う」

 この部屋で聞くその言葉には、説得力があった。

「おしりふき」と書かれたウェットティッシュ。おむつ入れ専用のごみ箱。床に散らばる統一性のないおもちゃたち。インテリアにこだわり抜いていた独身の頃の彼女の部屋とはまったく異なる生活感を醸している。

 それでも、幸せそうだ。テレビデッキの上に飾られた、結婚式の写真。小さな産着にくるまった、生後まもない誉くんの写真。家族3人でかしこまっている、フォトスタジオで撮影した写真。

 わたしにもいつか、和佐とこんな空間に住む日が来るのだろうか。

「それよりも、変な宗教に入ってたり危ない思想持ってたりギャンブルとか風俗に溺れてたりしないってことの方が、ずっと重要」

 つかまり立ちしてテレビ画面にプラスチックのアンパンマンをぎーーーーっとこすりつけ始めた誉くんを立ち膝でつかまえに行きながら、よしのが言う。

「完璧な人なんて、いないよ」

 それは、今のわたしを支える唯一の言葉になりそうな気がした。

「……かないませんなあ、既婚者には」

 楢崎が笑った。

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