影響
いたたまれなかった。布団類を腕に抱えたまま、わたしは動けずにいた。
じきに家族になる予定の人に性的なものを見られた気まずさだけではなく、もっと何かピュアなものを踏みにじってしまったような苦い感覚を覚えていた。
たとえるなら、運転中に
「どうしたー?」
真先くんが出て行くドアの開閉音が聞こえたのか、無印良品の紳士用パジャマを着た和佐が洗い髪を拭きながら脱衣所から出てきた。
「あれ? 真先?」
「和佐」
わたしは黙って、ソファーを指差す。
「……あー……」
歩み寄ってきて、0.02と書かれたその忌まわしい空き袋を目にした和佐は、言葉にならないうめき声を漏らした。
「これ見つけて、帰っちゃったよ」
「……ごめん、文字通り俺の不始末で」
「いや、わたしも気づかなかったから……ずっとそっちにいたものね」
ふたりでそれを見下ろして会話しているのは、なんだかすごく間抜けに思えた。わたしは布団類を寝室のキャビネットに戻しに行く。
居間に戻ると、和佐がそれをつまみ上げてごみ箱に捨てるところだった。
「本体じゃなくて、よかったな」
つまらないことを言って笑う。
「冗談じゃないよ」
なんだか無性に腹が立った。
テレビでは、紅組逆転優勝! と盛り上がっている。司会を担当した来年の朝ドラヒロインが、驚きの表情で優勝旗を受け取っている。
「……あいつ、繊細だから」
和佐がぼそりと言う。
「知ってる」
いつか、志賀さんの車に乗っているところを見られたときのことを思いだしながら、わたしはつぶやいた。
激動の1年が、終わろうとしていた。
きりりと冷えた元旦、ふたりで最寄の神社へ初詣に行った。
今年はアサミが絡んできませんように。つつがなく幸せな結婚ができますように。わたしは祈願する。
それからどうか、真先くんと仲直りできますように。むやみに人を傷つけずに済みますように――。
「長いよ、
ようやく拝殿前から離れたわたしに、和佐が笑って言った。
帰宅すると、郵便受けに年賀状が届いていた。きっちりとうがい・手洗いを済ませたあと、わたしはお茶を沸かし、和佐が宛先ごとに仕分けてくれた年賀状をそれぞれ黙って読んだ。
和佐には
あのキャンプから今年で10年も経つのに、ふたりとも律儀だ。もちろん、ボランティア歴がわたしより長い和佐には、他にも「うさぎのしっぽ」関係の賀状が何枚か届いている。
「……へー」
和佐が声を上げるので、なに? と彼が手にしている一枚をのぞきこむ。和佐が手渡してくれたのは、江奈からのものだ。
「私も『うさぎのしっぽ』の学ボラになりました! 子どもと触れ合うことで、日々成長している実感があります。最近児童の発達に興味があって、将来は児童発達支援管理責任者を目指すことにしました!!」
若者らしい文字で書かれたその言葉に、わたしはぎくりとする。
「江奈が……
なんだかすごく胸がざわざわした。こういうときの嫌な予感はたいてい当たってしまうことを、経験上知っていた。
きらりの年賀状にも、ボランティアを始めたと書かれていた。どこかの山の中で子どもたちに囲まれてピースする、日に焼けた健康そうな笑顔の写真に添えて。
年々見違えるようにきれいになってゆく彼女の写真をわたしは見つめる。キャンプファイヤーの炎に怯えていた少女の面影は、もうどこにもなかった。
「ステキな御報告、お待ちしてます!」
毎年必ず書き添えられている一文だ。付き合い始めた当初から応援してくれているきらりにくらい、婚約したことを書けばよかったと思う。
「ね、きらりも学ボラ始めたみたい。『うさぎのしっぽ』かどうかはわからないけど」
「お、どれ」
今度は和佐がこちらの手元をのぞきこむ。
「あ、これうさぎだよ。ほら、これうさぎのだもん」
きらりの腕に巻かれた
「あー、ほんとだ。ってことは、江奈と一緒に始めたのかもね」
「だろうね。仲良しだなあ」
和佐は笑いながら葉書をわたしに返し、真顔に戻って自分の考えの中に沈んでいった。
もうさすがに胃腸の方はすっかり元通りになったので、まだ心配してくれる和佐を制し、夕食は真先くんの手料理の残りを温めて食べた。
和佐の作る薄味の料理より、実は真先くんのはっきりした味付けの方が自分の好みに近いのだけれど、そんなことは口にできない。わたしはこっそり感動しながら料理を味わった。
「……あのさ、由麻」
突然、和佐があらたまって言った。その声の低さと表情の硬さに、わたしはどきりとする。
もうひとり、彼女ができたんだ。
あの衝撃の告白の瞬間が蘇り、まだ何も言われていないのに凍りつく。
箸を止めて次の言葉を待っていると、
「いろいろ、ずらす?……その、結婚のこと」
ああ。心臓が早鐘を打つように鼓動しはじめる。
「ずらすっていうのは……」
「ほら、2月14日に籍入れるのは……由麻、抵抗あるでしょ?」
アサミの誕生日だからさ。おそらくはその言葉を飲みこんで、和佐は薄く笑いながら言う。
「それはそうだけど……じゃあ、いつにするの?」
そこにこだわったら永遠に和佐と結婚できないような気がして、震える声で言った。
「2月22日とかもいいと思ったんだけどね、猫の日。でもさ」
気づけば和佐は完全に箸を置いている。何か決定的なことを言われる予感がした。
「……俺、転職しようと思うんだよね」
わたしは息を飲む。
「なんで」
乾いた声が出た。
「いや、……ずっと考えてたんだけどさ」
和佐は緑茶をひと口すすって湯のみを置き、小さく息を吐きながら両手の指を組み合わせた。
「今の仕事って、俺じゃなきゃいけないわけじゃないんだよね。俺じゃなくてもできるっていうか」
まじめな和佐が妙にカジュアルに会社を休むようになった理由が、ようやくわかった気がした。
気持ちはとてもわかるけれど、やりがいだけを求めていたら生活はできない。結婚前の大事なタイミングでパートナーがそんな大きな決断をするのは、不安しかなかった。
「でも……いい会社じゃない」
彼女が病気で倒れて、環境を変えたいので引越しします。同棲を始める前、そう言って湘南支部への異動を希望した和佐に、快く便宜を図ってくれた会社だ。
わたしならそんなにあっさり辞められないと思うけれど、それはいかにも日本人的なしがらみに縛られた考えだろうか。
「うん、いい会社なんだけどね。ただやっぱり、自分のやりたいことやっていきいきしている人たち見てると、違うかなって思う。もう30だし、進路を変えるなら少しでも、1日でも早いほうがいいかなって」
「何か、やりたいことがあるの?」
「うん……それなんだけど、俺ね」
呼吸を止めて言葉を待った。
「……俺、児発管になろうと思うんだ」
まったく予想もしない言葉ではなかった。それでも目の前がちかちかした。
「児童……」
「児童発達支援管理責任者?」
かぶせるようにわたしが言うと、和佐は目を見開いた。
「覚えたんだ」
「うん。ふたりでさんざんその話してたじゃない。今までだって、さんざんその単語出てたじゃない。調べるよ、そりゃ」
「そうだね。ごめんね」
和佐は再びうつむく。長い前髪が作り出す微妙な陰影が、彼の甘い顔立ちに寂しげな印象を与える。
「児童福祉の仕事、したいんだ、俺。特に発達障害の子を支えたくて……いろいろ調べてたら、余計に」
切実な口調で、和佐は言った。
「……アサミの影響?」
避けていたその名前を、結局わたしは口に出してしまう。今年はもう絶対に関わりたくないと思っていた人間の名前を。
「うん……いや、それだけじゃないけど……それは、ある」
和佐は認めた。
既視感のある、このやりとり。
また下腹部が痛みだしたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます