complicated

 微かな振動を感じながら、心地よいスピードでわたしはどこかへ運ばれてゆく。

 ああ、そうか。アサミの家から帰る途中だ。真先くんのアルファロメオに乗って。

 そうだ、あのたこ焼きパーティー。

 なんだかすごくすごく、心が張り裂けそうに辛い時間を過ごした気がするけど、今はなんとなく気持ちがいい。

 運転しなくなって久しいけれど、人の運転する車に乗せてもらうのは昔から好きだった。

 姉の車も志賀さんの車もいいけど、真先くんの車が、というより真先くんの運転が、いちばん心地よくて快適で、落ち着くな。

 頭や頬には、誰かの体温を感じる。あれ。何だっけ。誰だっけ。

「……で喋りすぎじゃねーの?」

「それはほんとに悪かったって……」

 真先くんと和佐の話す声がぼそぼそと聞こえてくる。

 まどろみから少しずつ意識が戻ってきた。薄目を開けると、車の後部シートでわたしは長谷川さんともたれ合っていた。

 すっかり熟睡していたらしい。長谷川さんはまだ、すうすう眠っている。外は暗くなり始めているけれど、長谷川さんが乗っているということは、まだ大磯に着いていないということか。

 運転席に真先くん、助手席に和佐。出会ったとき、和佐は黒髪で真先くんは茶髪だったけど、いつからか逆になったんだよな。いつかのように夕陽に透けて金色に輝く和佐の髪を見ながら、わたしはぼんやりと思った。

「……ちっともわかんねーけどな、俺には。あの人と由麻さんを比べること自体が」

 ごめーん寝ちゃってた、とふたりに声をかけようとして、突然自分の名前が出てきたのでびくっとなる。

「まあ、なんか豪快でおもしろそうな人ではあったけど」

「うん、おもしろいんだよ」

 反射的に寝たふりを続けるわたしに気づく様子もなく、ふたりはぼそぼそ話し続ける。アサミについて話しているのだとわかって、わたしは息を詰めた。

「それはわかるけどねえ……」

 赤信号なのだろう、真先くんがゆっくりブレーキを踏むのがわかった。車が減速し、静止する。ここは国道か、県道か。

「いっつもあんな感じで喋ってたわけ、ふたりで逢ってるとき」

 話が核心に触れている気がする。すう、すう、と寝息を立てるふりをしながら、わたしは聴覚を研ぎ澄ませる。気のせいか少し下腹が痛い気がするけれど、それどころじゃなかった。

「んー、まあ……」

「ほんと夢中だよね、語り始めるとさ。完全にふたりの世界だったよ。まだ気持ちあるのかと思っ」

「あるわけないだろ。とっくに切り替えてるよ。友達として接してるよ」

 真先くんの言葉を遮って、和佐が語気強めに言う。心臓がばくばくしていた。

「友達ねえー。由麻さんはどう思ったかな。あんな、ベッドに並んで座っちゃったりして。生々なまなましいんだよ、なんか」

「……場所がなかったんだからしょうがねえじゃん。由麻はわかってくれてるよ」

 車はまた滑るように走り始める。

 アサミと夢中で語らう和佐のいきいきした表情を思いだした。大笑いするアサミを愛おしそうに見つめる視線も。アサミ、と呼びかける声の響きも。

 辛い。辛かった。友達には見えなかった。心がばらばらになりそうだった。やけくそで、あの失敗して膨張したホットケーキもどきをがつがつ食べた。

「おまえこそどうなのよ、長谷川さん。美人じゃん」

 応戦とばかりに和佐が言う。

「……あのさあ」

 真先くんはウィンカーを出し、左にハンドルを切りながら溜息をついた。もう住宅街に入っている感じだ。長谷川さんの家が近いのかもしれない。

「俺、美人なら誰でもいいってわけじゃないよ」

 ふてくされたような口調で真先くんが言った。

「兄貴だってそうでしょ。別にあの人美人じゃないけど好きになったでしょう」

 どうか、どうか、長谷川さん、今、目を覚まさないで。必死で寝たふりを続けながら、わたしは祈った。

「まあ……」

 和佐は口ごもったあと、

「でも……もったいないね。おまえ、5・6年くらい彼女いなくね?」

「6年だね。二十歳のときに別れたきりだから」

「そんなにかあ……若いのに」

 救急車のサイレンが、和佐の語尾を消しながら通り過ぎてゆく。不謹慎だが、年末らしさを感じてしまう。

 変な体勢を取り続けているのでそろそろ身体が痛いけれど、身動きもできない。

「あ、そろそろだ」

「まじで? 起こしたほういいよね」

 という声に続いて、

「おーい、姫たちーっ。そろそろ起きてくださあーいっ」

 と真先くんが大声で呼びかけてきた。


 その夜、わたしの身体に異変が起きた。

 帰宅後からなんだか胃がむかむかして、夕食が食べられそうにないな、たこ焼き食べすぎたかなと思っていたら、吐いた。

 下腹部にも差し込むような痛みが走り、吐瀉物を流した後の便座に座りこまなければならないという情けない状況になった。

 上から下からと、盛大にくだした。

「ね、ちょっと、大丈夫なの?」

 ふらふらとトイレから出て手を洗い、口をゆすいでいると、残り物で炒飯を作ろうとしていた和佐が心配そうに駆け寄ってきた。

「うーん、あんまり大丈夫じゃ……あっ、ごめ」

 また吐き気がせり上がり、わたしは和佐を追い払う仕草をしながら口を抑えて再びトイレに駆け込んだ。

「どうしよう、もうどこも病院やってないや。休日診療所行く? ってか、行けそう?」

 出すものを出して再びふらふらトイレから出てくると、スマホであれこれ調べてくれていたらしい和佐が言った。

「行けそうに……ない」

 いつ「波」が来るかわからないから、外へ出る気にはとてもなれなかった。和佐が敷いてくれた布団に身体を横たえる。

「食あたり……かなあ? 俺は何ともないけど……」

 枕元に座りこんだ和佐が腕組みして言う。傍らに、レジ袋をかけた洗面器を用意してくれてあった。

「食材もほとんど、今日買ったものだったよね?」

「……や、もともとアサミが持ってたものも使ったよ。卵とか、マヨネーズとか。あとホットケーキミックス……あっ」

「あっ」

 和佐も同時に声を出した。

 最後にみんなで片付けをしたときに、アサミが

「やっばーい! この粉、2年も前で切れてたわ。平気だったかな? はっはっはっ」

と爆笑しながら空き箱を捨てていたのだ。

 あのホットケーキもどきを食べたのは、わたしとアサミだけだった。


 翌日はわたしの実家へ挨拶に行く予定だった。同棲を始めたときのように、わたしの両親にそろって頭を下げるはずだった。

 けれど、嘔吐と下痢で衰弱したわたしは、外へ出ることすらかなわない。ピークは越えたように感じるものの、まだ食欲もほとんど湧かない。

 おそらく食あたりで間違いないとは思うものの、学生の頃にかかったウイルス性胃腸炎にも症状が似ている。

 もしそうだとしたら、感染性がある。妊娠中の姉も来る実家へはとても行けない。

 年末の訪問は、泣く泣く見送ることとなった。


 予定が少しずつ、狂い始めた。

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