アサミふたたび[中]

 アサミの住まいは、前に訪れたときよりこぎれいに片付けられていた。

 小さな玄関の壁にはドライフラワーがマスキングテープで直接貼りつける形であしらわれ、何か芳香剤のようなものが撒かれているのか、人工的な香りが部屋全体に漂っている。

「狭いけど、入って入ってー! どうぞどうぞー!」

 レジデンス井原102号室の扉を全開にして、アサミがみんなを招き入れる。狭い玄関なので、おのずと1列に並ぶかたちとなった。お邪魔します、と各自ぼそぼそ言いながら靴を脱ぐ。

 小さなキッチンのシンクにはプラスチックのまな板が渡してあり、包丁もセットされている。コンロの上にボウルも置かれている。狭いながらも調理はできそうだ。

 室内に入ると、エアコンの暖房は切られていて、でも出発直前まで使っていたのか暖気がほのかに残っていた。

 ちゃぶ台の上に家庭サイズのたこ焼き器がセットされている。サラダ油のボトルと小皿、布巾も置いてある。

 友達のいないアサミなりに、今日のことを楽しみにしてはりきっていたのかな。わたしは複雑な気分になった。自分がどういう表情をすればよいか、未だにわからないでいる。

「荷物はここ置いちゃっていいよー」

 アサミが指したベッドの上には、前回はなかったキルトのベッドカバーがかけられていて、みんな遠慮がちにその上に鞄やコートを置いた。

 犬はいつもと違う雰囲気に興奮しているのか、同じところをぐるぐる回っている。

 きっと今、いちばん戸惑っているのは和佐だろうな。わたしは彼の表情を盗み見ようとするけれど、居心地が悪そうだということしかわからない。

「食材はもう、出しっぱなしでいいですよね?」

 イニシアチブをとるアサミに、長谷川さんが従順な後輩のように明るく尋ねた。

 男ふたりが持ってくれていた食料品の詰まったレジ袋を床に置くと、腰を下ろすスペースはほとんどなくなってしまう。

 と思ったら、飲食物を置く場所は確保してあった。

 前回は閉まっていた押入れの扉が今日は開いている。その上段にレジャーシートが敷いてあり、麦茶が入っているとおぼしきアルミのポット、紙コップ、割り箸、ウェットティッシュなどが置かれている。下段にはアサミの私物が詰まった衣装ケースがびっしり積まれていた。

 元は和室だったのを洋室にリフォームした部屋なのだろう。壁の材質もどこか昭和を感じる風合いだ。

「がらがらがらー」

 擬音語を言いながら、アサミが庭に面した窓を開け放った。

 風がないとは言え、真冬の空気が部屋になだれこむ。真先くんが「寒っ」と両腕をさすった。

 庭には、簡易テントが設営してあった。

 よく見ると生地はぺらぺらで薄いけれど、2畳分近いスペースがある。

「こちらはカップル様専用でーす! なーんて、部屋だけじゃ狭いからよかったら使って。寒いけど」

 はははは、とアサミは豪快に笑いながら窓を閉めた。

 悪い人じゃない。和佐の言葉が、今になって蘇る。アサミの精いっぱいの工夫とホスピタリティーに、わたしは戸惑っていた。

 今までの自分がものすごく狭量で、彼による人物評価の方が正しかったのではないか――。そんな揺らぎ。

「あ、そうだ、これ」

 思いだして、わたしは持参したタンドリーチキンのタッパーとマカロンの詰め合わせをアサミに手渡す。

「前回は手ぶらでお邪魔して、大変失礼しました」

「いえいえ、そんなー。あらあら、おいしそう。チキンだ」

 アサミは鷹揚に微笑んだ。

「こちらこそ、あのときは失礼なこといっぱい言っちゃって。今はちゃあんとふたりの幸せを願ってますから」

 嘘だ。

 いい人かも、と思いかけた心に一気にひびが入る。完全に諦めているのなら、あんなツイートをするものだろうか。否。

 小平兄弟が固唾かたずを飲む気配を感じたとき、

「あ、あたし、チーズケーキ作ってきたんです」

 長谷川さんが、大切に持ち歩いていた包みをアサミに手渡した。

「あらあら、お気遣いさせちゃって。手作り?」

「マサキさんに好きなお菓子聞いたら、チーズケーキだって言うから」

 長谷川さんはいたずらっぽく真先くんに視線を送る。

「ああ、それでわざわざ」

 急に水を向けられた真先くんは一瞬きょとんとして、それからにっこりと人懐っこい笑顔を浮かべた。

「いや、元は由麻さんがチーズケーキ好きなんすよ。作るのも上手くて、俺の22の誕生日のときに由麻さんが焼いてくれたチーズケーキがもうね、絶品で。それ以来、なんかはまっちゃったんすよね」

 真先くんは袋から食材を取り出して押入れの上段に並べながら、無邪気に言った。

 長谷川さんが唇を尖らせる。

 ああ、ばかっ! 今そんなこと言わなくても! わたしは心の中で真先くんを叱りつつ、いつのまにか自分が彼にそんな影響を与えていたことにちょっと驚いていた。

 長谷川さんから受け取ったチーズケーキを冷蔵庫にしまうアサミを見ながら、わたしは何か心に引っかかるものを覚えた。

 そうだ。

 あの誕生日前日、わたしが自宅でひとりチーズケーキを食べているとき、和佐はあの犬――ザッシュを病院に連れていくのを手伝うため、この部屋に来ていたんじゃないの。

 あの夜わたしは先に寝てしまったから気づかなかったけれど、和佐は犬の毛だらけで帰ってきて、念入りに掃除をしてから就寝したのかもしれない。

 どうして今日、なんとなく初めて来たふうを装っているのか。真先くんの車ではわたしがナビしたけど、和佐だって知っていたんじゃないの。

 形容しがたい感情が胸の内に湧く。犬の世話に訪ねたその一度きりのことなら、そう言えばいいじゃない。

 いやいや。わたしは思い直す。何度も恋人が訪れる部屋であれば、あんなふうに小汚くしておくはずがない。Twitterにも「Kくん」が訪れたことなんて一度も書かれていない。和佐にしたって、話がややこしくなるから言わなかっただけだろう。

 希望的観測の元に、わたしはわたしをなだめた。


 和佐は突っ立って、壁に貼られた一枚の写真を眺めていた。

 褐色の肌の男の子が、緑の木々をバックに微笑んでいる。右下の方に、いびつな文字で「DENES」と書き込まれている。この写真も、この前はなかった。

「アサミ、これは?」

 和佐が目線だけでアサミを探し、問いかける。その響きはやっぱりどこか甘やかで、ふたりがただの友達なんかじゃなく恋人であったことを思わせた。

 胸が苦しい。これだけのことで、こんなにも。

「ん? ああ。それねえ、デニス。あたしの息子」

 アサミがよく通る声で言い、みんなぎょっとして彼女を見た。

「うっそーん。ハイチの男の子だよ。あたしが支援してる」

「支援?」

 和佐はアサミを真顔で見ている。その視線に熱がこもっている気がして、わたしは胸を突かれる。

「そ。1日50円とかから、誰でも寄付できるやつ。もちろん、もっとまとまった額で送金してるけどね。支援パートナーってやつ」

「へぇ……」

「あたしのおかげで、この子は学校に行けるわけ。いいでしょ。だからある意味、あたしの息子。最近、やっと自分の名前が書けるようになったんだよ」

「はぁ……」

 和佐は語彙を失った人のように相槌を打っている。心がざわざわして、わたしは指輪をはめた左手をぎゅっと丸めた。

「さ、みんな手ぇ洗ってたこ焼き作ろうぜ。たこ焼きたこ焼き」

 真先くんがシンクのまな板を寄せてざばざばと手を洗いながら、微妙な空気を払拭するように大声で言った。

 パーティーはまだ、始まったばかりだ。

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