けじめ

 志賀さんの車の中で、上海のお土産をもらった。

 お湯に浮かべると開く小さな薔薇がたくさん入った中国茶と、ハンドクリーム、そして象灰色のカシミヤのマフラー。

 そのセンスの良さに、やっぱりこの人は女性の扱いに慣れている、とつくづく思う。

 雨粒がぽつんぽつんとフロントガラスを弾き始める。そういえば、夜から雨になると天気予報で言っていた。

「運転、気をつけてくださいね」

 と声をかけると、

「優しくしないでよ。どうせこれからふるんでしょう、俺のこと」

 志賀さんは前を向いたまま言った。どきりとする。

「素敵な婚約指輪だね」

「……はい」

 そのまま横浜方面へ、わたしたちは無言でドライブした。

 志賀さんの、煙草のにおい。


 志賀さんはわたしをまたあのダイニングバーへ連れて行った。

 あの、壁から生えているような一本木のテーブルに向かい合う。店内は、前回来たときよりもカップルの比率が高い。みんなクリスマスにくっついたのだろうか、などと考える。

「今日は、今までの御礼に奢らせてください」

 わたしが言うと、

「あーーーっ」

 志賀さんは突然うめいて顔を伏せた。

「やっぱりふられるのかよ、俺。キツいなあ」

 胸が痛む。わたしは自分のいちばん好きなカクテルであるマタドールをくいっと飲んだ。

「マタドールなんて飲んじゃって。俺にとどめを刺す闘牛士かよ」

「志賀さん」

 なだめるように言おうとして、うっかり声が甘やかになった。

「わたし、志賀さんにはめちゃくちゃ感謝してるんです。わたしがいちばん辛いとき、心の隙間を埋めてくださって」

「『笑ゥせぇるすまん』みたいだね」

「……ちょっと」

 わたしはこらえきれず、くつくつ笑いだす。

「真剣に話してるのに、いちいちおもしろい切り返しやめてくださいよ」

 志賀さんは、愛おしそうな目でわたしをじっと見る。また胸が痛んだ。

「えっとですね」

 仕切り直して、わたしは再び切りだす。

「志賀さんがいろいろ優しくしてくださって、甘えさせてくださったおかげで、彼との辛い時期もなんとか乗り越えて、婚約に至りました。これからは、ふたりきりでは会いません。そのけじめとして、今日」

「舘野さん」

「はい」

「もし彼氏がいなかったらどうなの、俺のこと」

「え」

 黒いタブリエをきりっと巻いた店員が、カルパッチョサラダを運んでくる。この一瞬で、わたしたちの関係を把握してしまったことだろう。

「婚約したからさよならとかじゃなくて、一対一で俺のこと考えてみて」

 ギムレットをすすり、志賀さんはなおも言った。

 わたしは無言でサラダを取り分ける。

「自分の属性に引きずられないで、俺のこと単体っていうか単独で見てよ」

「志賀さんは……すごく素敵な人です」

 また料理が運ばれてくる。若鶏のハーブフリット。ムール貝のマリネ。チーズスティックフライ。

「本の貸し借りしたり、ドライブしたり、こうやって一緒に食事したり、全部すごく楽しかったです」

「過去形かよ」

「……楽しいです」

「じゃあ、付き合おうよ。今からでも遅くないよ。彼氏は例の女とやっちゃってるわけでしょ。ほんとにそんなのと結婚していいわけ」

 ずきりと胸が痛んだ。和佐こそアサミとけじめをつけるべきなのに、数日後にはたこ焼きパーティーなのだ。

「自分の幸せ、ちゃんと考えたほうがいいよ」

「そうですね。でも」

「でも、なに」

 ここまで食い下がられるとは思っていなかった。もう、あのことを言うしかないのだろう。

「もし志賀さんとお付き合いしたとして……元モデルの元カノと比べられるのはキツいです」

 目を見て一息に言った。

 志賀さんは虚を突かれた顔をして、それからふっと笑った。

「……長谷川に聞いたの」

 ああ、やっぱり。

 わたしは形容しがたい痛みを覚える。一方で、安堵している自分もいた。

「いえ、総務課の方に」

「総務課のおばちゃん連中、みんな噂好きだからなあ。どうせ根も葉もない俺の噂も聞いたんでしょ」

 店内には、低くジャズが流れている。笑いさざめくカップルの声でかき消えそうになる旋律が、途切れ途切れに耳に届く。

「好き放題言われてるよね、俺。長谷川とは付き合ってたけど、やたらめったら派遣に手を出してるわけじゃないよ」

 黙っていると、志賀さんは勝手に情報を補足し始めた。

「伊佐野の子が俺の子だとか、ふざけてるよね。だったらあんな、写真べたべた貼るかよ。あいつのことはそういう対象として見たこともねーよ」

「……そうなんですね」

「まあ、若い子が好きっていうのはほんとだけどさ。なんで若い子好きのおっさんはそうやって言われるんだろう。おっさん好きの若い子なんて、非難どころか褒めそやされたりして、漫画になったりしてるよね?」

「……そうですね、たしかに」

「でしょ? それにさ、恋愛のサイクルが人よりちょっと早いだけで、俺は一回一回ちゃんと本気だよ。本気で好きになってる」

 本当にそうだ。人の恋愛事情や性的志向をとやかく言うなんて、下衆げすなのだ。

「でも……長谷川さんのこと薄っぺらい人みたいにおっしゃってましたけど、長谷川さんそんな人じゃないですよ。ちゃんと引き出しありますし」

「そうかな」

「そうですよ」

「舘野さんの知識量とは比べものにならないよ。……ってか俺、ほんとに舘野さんみたいなタイプ初めてなんだって。こんなに難攻不落なのもさ」

「ごめんなさい」

 志賀さんは深く深く嘆息し、やがて諦めたように微笑んだ。

「まあ、わかったよ。勝手に好きでいるさ。また彼氏に裏切られたら、その指輪メルカリで売って俺のとこ来なさいよ」

「そんな日が来ないようにしますね」

「はいはい、お幸せに。はー、今夜は飲もう」

 長谷川さんともこの店に来たことがあるのか訊こうと思っていたけれど、そんなことはどうでもよくなって、わたしはロングアイランド・アイスティーを注文した。

窓ガラスを、さっきより強めに雨粒が叩いている。

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