あの子のデート
始業ぎりぎりまで、わたしは階段の踊り場でひとり呼吸を落ち着かせていた。
なんで、なんで、なんで気づかなかったの。ばかわたし。どうかしてる。
脳がパンクしそうだった。
噂は噂に過ぎないけれど、片岡さんの話の一部は、思い返せば腑に落ちることだった。
そうだ、長谷川さんが彼氏にふられたと泣いていたまさにその日に、志賀さんは「彼女とちゃんと別れた」と言っていたではないか。
若い子と外車が好きで、さんざんセックスしたという、長谷川さんの「元彼」。ああ。
本当にうっかり2回ほどキスはしてしまったが、やけくそで身体の関係を持ったりせずにいたのは幸いだった。
……あっぶねー。わたしは大きく息を吐き出す。
わたしが「遊ばれちゃう」ところだったのかどうかは、さして問題じゃない。軽くても重くても、わたしの辛い時期に好意を向けてくれ、優しさで包んで甘えさせてくれ、和佐と対峙までしてくれた志賀さんへの感謝は変わらない。
けれど、親しい同僚の元彼――しかも長谷川さんがあんなに夢中だった――と色恋沙汰を起こす趣味はない。そういうのはもう、大学の頃の荒廃期でこりごりだ。
「おはよう」
話しかけられて、びくりとする。
丹羽さんだった。今日も息子さんのお下がりのライダースジャケットを着ている。
そういえば、ダイエットのために毎日エレベーターを使わず階段で3階のオフィスまで上っていると言っていた。わたしはかすれ声で挨拶を返す。
「どしたの? こんなとこで」
「や、えっと」
取り繕うより、今は真実に近づきたい欲求に抗えなかった。
「あの……丹羽さんって、長谷川さんが付き合ってた相手、ご存知ですか?」
「ああ、志賀さん?」
事もなげに丹羽さんは即答する。くらくらした。
「自分でははっきり言わなかったけど、噂になってたよね。前は結構、毎日のように一緒に帰ってたし。駐車場で待ち合わせてさ。3階から丸見えだっつーの」
「そ……」
そうだったのか。同じバス通勤なのに、なぜだかめったに帰りがかち合わないと思っていた。
「おんなじ旅行のお土産、配ってたりしたしね。ほらあの、抹茶のダックワーズ? あれもらった日にCS部行ったら、おんなじの配られてたよ。わかりやすいよねー。あっやば、時間」
わたしだけが何も気づいていなかった。あまりの愚鈍さに、もはや笑ってしまう。
始業のチャイム直前にオフィスへ戻り、出張明けで今日出社するはずの志賀さんに
「おかえりなさい。
お疲れかと存じますが、今日の帰りLAWSONで待っています。
ピックアップしてください」
と社内メールを打った。
「すごーい! うらやましーい! ちょっとよく見せてくださいよ〜」
わたしの婚約指輪に、長谷川さんはハイテンションで反応した。
「朝会ったとき気づかなかった。おめでとう、ほんとに」
丹羽さんもゆったり笑う。今朝、誰を話題にしていたのか、もちろんこの場では伏せておいてくれそうだ。
今日の仕出し弁当は、めずらしくパスタがメインだった。具材がほとんどなく麺もぼそぼそしていて、コストが低そうだなと思う。
たまにこうしたはずれもあるが、一食340円じゃ文句は言えない。
「このブランド、あたしも好き。彼氏さんがんばりましたね。この間disっちゃって悪かったな」
わたしの乱れる胸中など知る由もなく、長谷川さんは無邪気に指輪を褒める。
幸せ真っただ中のはずなのに、懸念事項が多すぎてうまく微笑むことができない。
「そんで、弟くんとのデートはどうだったのよう」
わたしが訊けずにいたことを、丹羽さんがずばりと言葉にしてくれた。
「んー」
長谷川さんはパスタをずずっとすすり、咀嚼する口に軽く手を添える。その指先には、クリスマス模様の気合いの入ったネイルアートが施されたままだ。
「楽しかったんだけど、どっかノリ悪いんですよねえ、マサキさん。せっかくディズニー行ったのに、パレード見ないで帰るって言うんですよお、寒いからって。あり得なくないですか?」
「あたしも興味ないわ、パレード」
「丹羽さん、ひどおい。ディズニーのパレードは正義ですよ! で、年末年始でまた会えないか訊いてるとこなんですけど、まだ返事ないんです」
長谷川さんは、かわいらしい唇を尖らせた。
窓から見える今日の富士山は、真っ白に冠雪していて荘厳だ。
「本当に忙しいんだと思うよ? たこ焼きパーティーの予定もあるし」
何かフォローしたくて、わたしは余計な情報をもたらしてしまった。
「え、たこパ? 何それ、舘野さんも行くんですか?」
「う、うん。ちょっと……知り合いの家でやるんだけど」
長谷川さんは長い睫毛に縁取られた両目をぱちぱちと瞬かせて、
「……それ、あたしも行っちゃだめですか?」
と言った。
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