噂
クリスマスが終わり、あと2日だけ働けば、28日からもう年末年始休暇だ。
わたしは初めて婚約指輪をはめて出勤する。こんな日をずっと、焦がれるように待っていた。
それなのに、和佐の電話越しに聞いたアサミの声がまだ耳に
結局、アサミの部屋でたこ焼きパーティーをすることになったのだ。
わかった、行くよ、と和佐が応えるまで、あの朝アサミは電話を切ってくれなかった。お手上げだった。さすがの和佐もいささかうんざりした様子だった。
たしかに、「アサミに恋人か友達ができるまでは友人関係を続ける」という約束だった。しかし、それはわたしとの婚約以降も有効なのだろうか。あえて恋人も友達も作らずに和佐と会うことを所望され続けたらたまらない。
こちらのもやもやにはお構いなしに、アサミはいきいきと話し進めた。
彼女の職場である児童の発達支援センターで、以前子どもたちのおやつに出したたこ焼きの粉が大量に余っており、賞味期限が切れかかっているのでもらって帰ってきたという。
「ね、だからあとは
何をどうすれば、イブの朝から天かすの話をする羽目になるのだろう。
「他にもウィンナーとかさ、好きな具材入れても楽しいよね。あたしこういうの憧れてたんだ、大人数で」
「たこ焼き器は持ってるの?」
和佐が現実的な突っこみを入れる。
「持ってる持ってる。そんなにおっきくないやつだけどね、お母さんいた頃によくやったんだ、ふたりきりのたこパ。ね、友達も誘っておいでよ。お祝いお祝い」
あの狭い部屋にそんなに人を呼んで大丈夫なのだろうか。わたしは彼女の部屋のエアコンの
どちらかと言うと彼女を黙らせて電話を終えるため、和佐はそれを承諾した。29日の11時、アサミの最寄りのバス停付近集合。
3人で会うのはどう考えても気詰まりだし、ともすれば一触即発になりかねない。なので、真先くんにも声をかけることになった。
昨夜和佐から電話を入れ、最新の状況を含めてざっくり経緯を説明すると――和佐はアサミと身体の関係があったことまで自ら正直に話した――、真先くんは「兄貴はいっぺん死ね」と言いながら、パーティーへの参加を快諾してくれた。当日は、車まで出してくれるという。
長谷川さんとのデートはどうだったのか、プロポーズのことをどう思ったのか、そこまでは確認できずじまいだ。
そんなことを思い返しながら化粧をしていたらいつも乗る電車を逃してしまい、普段ならミルクティーを買うコンビニに寄らずに出勤した。
いつもより少し遅い到着だけれど、フレックス出社の正社員たちはまだほとんど来ていない。いつもながら、その自由度の高さをうらやましく思った。
オフィスでPCを立ち上げ、起動を待つ間、カフェスペースへお茶を淹れに行く。ブラックコーヒーで頭をきりっとさせたい気分だった。
総務課の
「あ、手伝いますよ」
ウォーターボトルは12リットル、つまり12kgあるはずだ。拒まれるだろうなと思いつつ、儀礼的に声をかける。こういうのは、途中から手を出すほうが逆に危ない。
「いい、いい、平気。よいしょっ」
ずぼっ、と音がして、ボトルがサーバー本体に刺さり、固定された。50がらみの片岡さんは、ふうっと息を吐き肩を揉みながらこちらを見た。
「ありがとね。あ、舘野さん、お弁当代あとで、いい? お休みに入っちゃう前に」
「あっ、はい。用意してあるので後でお渡しします」
仕出し弁当の代金は、給与から天引きではなく、月2回の業者の締め日に合わせて片岡さんに現金払いをする。
わたしはいつも、お金を入れた封筒にシールを貼ったりスタンプを押したり、少しかわいくして渡すことにしている。ささやかだけど、楽しい作業だ。片岡さんもたまに「おっ、新作のシール」などと反応してくれる。
わたしがコーヒーを淹れている間、片岡さんは総務課に戻らず、自分のお茶を淹れるでもなく、キャビネットに寄りかかってこちらを見ていた。何か言いたげだな、と気づいたとき、
「あのさ」
片岡さんが口を開いた。
「はい」
「舘野さんさ、よくここで志賀さんとお茶飲んだりしてるじゃない?」
不意を突かれて、わたしはどきりとした。
なぜ急に、志賀さんの名前が。そう言えば前にここで志賀さんと話していたとき、片岡さんが途中で入ってきた気がする。
水の入れ替えやコーヒー豆の補充など、このスペースにいちばんよく出入りするのは総務課の課員たちだ。入口付近からいろいろ見られていたとしても何もおかしくない。
「え、ええ」
動揺しながら、抽出の終わったコーヒーを取りだす。
「志賀さんってさー……いろいろ、気をつけた方がいいよ」
「いろいろ、とは」
芳醇な香りのコーヒーを口に運びつつ、わたしは問いかける。嫌な予感に胸がざわついた。
片岡さんはわたしに身を寄せ、周りに誰もいないのに声を潜めて話す。
「舘野さんってまだ1年くらいだよね? だから知らないかもしれないけど、志賀さんってすごい女の子好きなのよ。若い子好きっていうか」
意外、ではなかった。最初に声をかけられたときも唐突だった。さほど接点もないのにいきなり気に入られた感があった。
それでも、胸に鈍い痛みが走った。
「若い子と見たら手を出してね。奥さんともそれで離婚したって噂。入社当時なんて伊佐野さんとも関係あったって話だよ。そうなるとさ、伊佐野さんの一人息子も誰の子かなって話よ。シングルマザーじゃない、彼女。舘野さん、何か聞いてる?」
何も聞いてないです、と答えるのが精一杯だった。
「まあそのへんの真偽はわかんないんだけどさ、火のないところに煙は立たないじゃない? 男前だしね、志賀さんも。シブくてさ」
作り笑顔をしながらも、脚が震えるのを感じた。
片岡さんはどんどん饒舌になり、わたしの腕や背中に時折手を触れながら喋り続ける。ああ、こんなに噂好きな人だと知っていたなら、もっといろいろ用心したのに。全力で後悔していた。
「派遣キラーって呼ばれてるのよ。気をつけてね、あんまり近づくと遊ばれちゃうかもよ? 舘野さん、若いしかわいいしさ」
「……いやあ、わたしだってもう30ですよ」
「あら、ほんと? 見えないわね。あの子と同じくらいかと思ってた。ほら、それこそ志賀さんと付き合ってたあの子ほら、長谷川さん?」
心臓が止まるかと思った。
「エリートスタッフィングの子だよね、彼女。あれ、舘野さんもじゃない?」
「そうです」
「そうよね、知ってるどころか仲良しよね。一緒にお昼食べてるものね」
「ええ……毎日」
「なら、志賀さんの話聞いてる? 最近一緒に帰ったりしてないから、志賀さんがまたターゲット変えたんじゃないかってみんな言ってる。まさに派遣キラーよね」
ブラックコーヒーの苦味が、喉いっぱいに広がった。
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