イブの憂鬱

 クリスマス・イブの朝、セミスイートルームのダブルベッドで目覚めると、左手の薬指に指輪がはめられていた。

 昨夜、小箱に戻してサイドテーブルに置いておいたはずなのに。

 ぼーっとしたまま左手を窓からの差しこむ朝日にかざして眺めていると、わたしが起きた気配に和佐も連鎖的に目覚めたらしく、背中から抱きしめられた。

「だめじゃん、24時間つけててくれなきゃ」

 半分寝ぼけた声で、もにゃもにゃと言う。

 先に就寝したわたしの指に、和佐がはめたということか。

「そっか……そういうもんかな」

「そうだよ。だって婚約指輪なんだよ?」

 嬉しいはずなのに、なぜだか少し恐れに似たものを覚えた。かせ。そんな言葉が浮かんだ。

「結婚指輪は、今度一緒に買いに行こうね」

 和佐はわたしの両胸に手を回し、こねくり回しながら言う。温かい両脚をわたしの脚に絡めてくる。

 昨夜、この客室で夜景を見ながらフルコースを食べたとき(エンゲージプランというようなものを和佐が予約していたのだ)、彼が熱っぽく語っていたことを思いだす。

 年末は由麻の実家に行って、年始は俺の実家に行って、それぞれ報告しよう。入籍はバレンタインとかホワイトデーでもいいし、何でもない普通の日でもいいね。由麻がジューンブライドがいいなら、6月まで待つし。挙式会場は、教会がいい? ホテル? レストランウェディングってのもあるみたいだけどね……。

 和佐のテンションと雰囲気にされて、まだどこか迷っているなんてとても口にできなかった。でも、今なら。

「和佐、あのね」

「んー」

 和佐はまだせっせとわたしの胸を揉みしだいている。寝起きの和佐は、いつもおっとりしていて少しえっちで、かわいい。悔しいけれど、そんなところもやっぱり好きだと思ってしまう。

「あのね。わたし今、すっごく嬉しいんだけどね。でもあの」

 和佐の両手を自分の両手で押さえながら、言う。

「やっぱりね、あの……ついこの間まで揉めてたのにさ、急にモードが切り替わらないっていうか。嬉しいんだけど、まだどっか戸惑ってるっていうか」

「え」

 和佐が身体を強張こわばらせるのがわかった。

「だってほんとについこの間じゃん、……『彼女』がもうひとりいたの」

 イブの朝からアサミの名前を口にすることははばかられた。

 和佐は、鼻からすーっと溜息をついた。ぬるい息が首筋に吹きかかる。

「まだ、許せない? 俺のこと」

 黙っていると、

「そっか。そりゃそうだよな。簡単に許せるわけないよな」

彼は薄く笑いながらひとりで納得した。

「ごめんね。嬉しいことはすごく嬉しいの。でも、あのことがなかったらもっと手放しで喜べたのになって思う」

「わかる。ほんとごめん、最低なことして。プロポーズも、由麻の20代に間に合わなくて」

 和佐は、わたしの耳たぶにそっと口づけながら謝った。泣きたい気分になる。

「……でもさ」

 わたしの肩甲骨のあたりを撫でながら、彼はまたひとつ小さな溜息をついた。

「由麻だって、したじゃん」

「え?」

「キスしたじゃん、シガって男と」

 わたしは言葉を失う。志賀さんには悪いけれど、彼のことはアサミと和佐の諸々に比べたら、取るに足らないことだという認識だった。洒脱しゃだつな大人の男性との、ちょっとしたじゃれ合いと言うべきか。

「俺は許したよ? 愛してるから」

 その言葉は引っかかった。わたしはむくりと上半身を起こして和佐の顔を見た。

「愛してたら、許さなきゃいけないの? 愛してるからこそ深く傷ついたからなかなか許せないっていう気持ち、わからない?」

「ちょっとちょっと」

 困ったように笑いながら、和佐も身を起こした。朝の光がベッド全体を覆い始めている。

「わかった、言いかたが悪かった。由麻のこと愛してるから、忘れることにしたよっていう話。ね」

 ね、と言われても、わたしのもやもやは解消しない。急に上から目線の和佐に苛立ちを覚えていた。

「それにあたし、たしかに志賀さんに隙は見せたけど、自分からキスしたわけじゃない。和佐とは違う」

「ちょっと、由麻」

「自分から、キスしたんでしょう? その唇で、自分の意志でアサミとしたんでしょう」

 とうとうその名前を出してしまった。勢いがついて、止まらない。前にも同じ言いかたで彼を責めたけれど、全然言い足りていなかったことを今更ながら自覚する。

「しかもキスだけじゃないでしょう。なのに許すとか許さないとか、ずいぶん上から目線じゃないの」

「由麻!」

 とうとう、和佐がうんざりした声を出した。

「クリスマスなのに、やめてよ。たしかに俺が全部悪いよ。何度だって謝るよ。由麻の気が済むまで一生謝るよ」

 和佐の語尾がかすれる。喉が少し痛そうだ。ホテルの部屋というものはおしなべて乾燥していて、寝起きに口論するには向かない。

「でもさ……指輪に免じて、って言ったらあれだけど、今日だけはアサミの話はやめてよ頼むから。せっかくメモリアルに……」

 じーん。じーん。

 サイドテーブルに置かれていた和佐のスマートフォンが振動して、ふたりともはっと息を飲む。画面を見なくとも、強い確信があった。きっと和佐も。

 じーん。じーん。

 和佐はスマホに手を伸ばし、充電コードから引き抜いて、わたしに着信画面を見せた。

「アサミ」。


 本当にいったい何を好き好んで、自分をふった相手にイブの朝から電話する気になれるのだろう。

 しかもまだ、7時にもなっていないのだ。犬の散歩のために休日も早起きしていることは知っているけれど。

 わたしの誕生日前夜のあのショックと怒りが鮮明に蘇り、一気に血圧が上がるのを感じる。

 和佐は一瞬ためらったあと、わたしに見えるように操作した。「スピーカー」ボタンを押し、続けて通話ボタンを。

「……はい」

「メリー・クリスマスっ」

 心の準備が整う間もなく、アサミの声が通話口から響いてきた。その声だけで、あの彼女の部屋での攻防を、心より先に身体が思いだす。

「……メリー・クリスマス。ねえ、アサミ」

「何してた? っていうか、寝てたか。へへへ」

「いや起きてたけど、あのさ」

「あっ、それとも朝から彼女と? きゃー、やだ! えっちー!」

「アサミ」

「いやさ、昨日、誕生日おめでとうって言えなかったなって思ったら夜眠れなくなって。起きたらすぐに電話しようと思ったわけ。友達だって、電話くらいするでしょ?」

 相変わらずぺらぺらとよく喋る女だ。相手のテンションなどお構いなしなのだ。

 それよりも、和佐がいさめるように呼びかける「アサミ」という声に微量ながら甘やかさが含まれている気がして、わたしはどうにも落ち着かなかった。

「だから、誕生日とクリスマス、どっちもおめでとっ。今までちゃんと我慢してたんだから、これくらい言わせてよ」

「アサミ。俺、彼女にプロポーズした」

 アサミは黙った。

「結婚するんだ。だから、なるべく……こういうのは」

「お祝いしなきゃ!」

 は? とわたしは思わず声に出した。

「あたしの大切な友達が結婚するんだもん、お祝いさせてよ! かずくん、冬休みっていつから? うちでパーティーしようよ。もちろん彼女も一緒にさあ、ね。彼女同伴するならいいんでしょ、会っても」

「いや……まあ」

「あたしこの間あの人にちょっと言い過ぎちゃったからさあ、謝りたいしさ。他にもお友達連れてきてくれても全然オッケーだから。うち狭いけど、庭もあるしなんとかなるよ。ザッシュもかずくんに会いたがってるよ?」

 そこまでして和佐に会いたいのか。わたしは呆然とする。

 情熱というその一点においては、今の自分はアサミに負けているような気がした。

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