雪の日

 関東地方に雪が降った。珍しく、この温暖な湘南地域にも。


 午前中から降っていた雪が昼過ぎにはみぞれになり、粒の大きさと白さを増しながら降り続けた。

「交通機関の乱れが予想されるため、火急かきゅうの業務がない限り15時を目処に退社すること」というメールが総務部から回ってきた。

 伊佐野さんからも「まだ請求書大丈夫だよね? 積もらないうちに帰って」と促され、わたしは机の上を手早く片付けてPCの電源を落とした。


 タイムカードリーダーのところで長谷川さんと一緒になり、「帰れったって、どうせ派遣はそのぶん無給になって終わりだよねー」と愚痴り合いながら外へ出た。

 駐車場に停められた車はみんな真っ白に雪をかぶっている。

 バイク通勤の丹羽さんは、息子さんのお下がりだというライダースジャケットを着て早々に帰っていった。主婦はたくましい。

 バス停は既にずらりと人が並んでいて、わたしたちは屋根付きの部分からあぶれた。

 いつまで経ってもバスは来ない。パンプスを履いた足元は冷たく湿しめり、傘を持つ手が凍える。

 いつもおしゃべりな長谷川さんからも言葉を奪うほど、本格的な寒さ。わたしたちはただ黙って、目の前の道路を通過してゆく車の流れと白く染まりゆく景色を震えながら見つめていた。

 一台の車がウィンカーを出しながら近づいてきて、わたしたちの目の前にすっと止まった。

 白い、アルファなんとか。

「そこのオネエサン、寒くないデスカ。チョイト乗って行きまセンカ」

 助手席側の窓を自動で下ろし、あの誕生日のときのように、真先くんはわざと片言の日本語風に声をかけてくる。

 思いがけないありがたさに胸をつまらせながら、飛びつくように車に駆け寄る。バス待ちの列の人たちに、申し訳なさといくばくかの優越感を抱きながら。

「え、なに、知ってる人ですか?」

 長谷川さんが困惑している。

 ちょっと待ってて、とわたしは彼女に言い、ドアを開けながら真先くんに「ありがとうー! 悪いんだけど、同僚もひとり一緒にいいかな?」と訊いた。


「すごいじゃないですかー!」

 後部座席で、長谷川さんははしゃいでいる。

「こんなイケメンがいきなり車で迎えにくるとか、舘野さんも隅に置けないですねー! しかもこれ、アルファロメオのジュリエッタじゃないですかあ」

 そうだ、そうそう。たしかそんな名前だった、この車。

「よくご存知ですね」

 真先くんが前を見たまま言う。イケメンと言われても表情ひとつ変えないあたり、普段から言われ慣れているのだろうなと思う。

「元彼が外車好きな人だったんですよー」

「はは。まあ、概して女性の車知識の情報源は元彼でしょうね」

 真先くんは軽妙に応じている。

 地獄に仏とばかり乗り込んだ真先くんの車で、わたしたちはまず長谷川さんの住む大磯方面へ向かっていた。駅まででいいよと言ったけれど、真先くんはそれぞれの家まで送り届けてくれると言う。

 渋滞で、道路はあまり進まない。視界は真っ白だ。

 真先くんのスマートフォンから、彼の編集したプレイリストの音楽が次々に流れる。この非日常感に、不謹慎かもしれないけれどわたしは陽気な気分になっていた。

「弟さんがこんなイケメンってことは、彼氏さんもイケメンですか? 似てるんですか? そういえば、写真見せてもらったことなかった気がする」

 身体が温まっていつもの饒舌じょうぜつを取り戻した長谷川さんは、小平兄弟に興味を示し始めた。失恋からだいぶ立ち直ったらしい彼女は、最近ホットヨガに通ってさらに美しくなった。

 あ、この人には「あのこと」は話してないんだね。了解。

 ふいに、ハンドルを握る真先くんの心の声が、脳内に直接話しかけられたように聞こえた気がした。テレパスみたいに。

「彼氏さんは車、なに乗ってるんですか?」

「あ、車持ってないんだ、うち」

「あっ、そうなんですかあ」

「そうそう。運転したら事故に遭うからって免許も持ってないんですよ、兄貴」

 運転席から真先くんが補足してくれる。

 流れる曲に合わせて歌ったり、たわいもない話をしたりしながら、車は少しずつ進む。遠足のように楽しくて、このドライブが終わらなければいいのにとわたしは思った。

「……え、長谷川那智なち!?」

 真先くんがルームミラーを見て突然叫んだ。

 何のことかと思う間もなく、長谷川さんが

「え、え、嘘! 知ってるんですかあ!? やだー」

 とさらに大きな声を出す。

「知ってますよ、昔の彼女が大ファンだったんすよ。うわーうわー」

「信じられなーい! でもごめんなさい、本名は裕子ゆうこっていうの」

 長谷川さんは心から嬉しそうに身を乗り出し、運転席のシートを抱きしめんばかりだ。

 長谷川さんがモデルとしてデビューしたのは、既に廃刊になってしまったローティーン向けの少女雑誌だと聞いている。そんな名前でやっていたことまでは知らなかった。

「部屋中に雑誌の切り抜きの拡大コピーをべたべた貼り付けてたから、忘れようがないっすよ。うわー、俺今、長谷川那智を乗せてるよ」

「もーやだー、嬉しすぎるんだけど! そんないい子となんで別れちゃったの?」

「俺に好きな人ができたから」

「やー! もったいなあーい」

 ふたりは少しずつ敬語を解除して盛り上がっている。そんな彼らを眩しく眺めた。

 この中で、わたしだけ30代なんだな。

 そう思い至って、少しだけ疎外感を感じた。


「ねえねえ、小腹こばら空きません?」

 と長谷川さんが言いだした。中途半端な時間に切り上げてきたので、午後に入ってからお茶の一杯も飲んでいないことを思いだす。

 マクドナルドに立ち寄ることになった。

 雪はまだやまない。車の鍵を閉める真先くんに傘を差しかけ、きゃあきゃあ言いながら3人で店内へ入る。ぼわりとした熱気に包まれる。

 それぞれの飲み物のほか、ポテトやナゲットをたくさん頼んでみんなでシェアすることになった。高校生みたいなノリが楽しい。和佐はどうしているだろうと一瞬考えるけれど、今スマートフォンを開いたらこの楽しい気分が終わってしまうような気がした。

 熱いカフェラテをすすり、ポテトを一口かじる。

「はあ、人心地ついたね」

「ほんと」

 この寒いのに、真先くんはシェイクを飲んでいる。若い、と思う。

「……おいしいね。マックのポテトって、9年ぶりに食べた。っていうか、マックに入ったの自体が9年ぶり」

 ポテトの庶民的なおいしさにわたしが思わずつぶやくと、ふたりがぎょっとした顔でわたしを見た。

「なんで? 9年?」

「何をどうしたらマックに9年も入らずにいられるんですか?」

「いやあ、和佐が……彼が、チェーンのハンバーガー屋とかあんまり入らない人で。特にマックはジャンキーで体に悪いからやめとけって言うから、なんとなくわたしも入る機会失っちゃって」

 理解不能、という顔で長谷川さんはわたしを見つめた。いくらか、憐れみの表情が混じっている。

「出たよ、兄貴の健康志向が。でもここまでとは思わなかった」

 真先くんは額に手をあてて言う。

「学生時代はもちろんよく行ってたんだよ。久しぶりすぎてなんか浦島太郎気分。今って、こんなカフェラテとかカフェモカとかあるんだねえ。注文するときびっくりしちゃった」

「……それ、つらくないですか?」

 長谷川さんが、ナゲットをさくりとかじりながら、つぶやくように言う。

「え」

「健康とか、安全とか、たしかに大事だけど、なんか極端な気がする」

 いつになくシリアスな口調に、わたしは胸を突かれる思いがした。

「車はなくてもいいけど、免許だけでも持ってないと逆に生きづらいような気がする。それに、9年も付き合ってぐずぐず結婚しないのとかも、なんか……」

 そこまで言って長谷川さんははっとした顔になり、

「ごめんなさい、おふたりの事情も知らないのに。しかも弟さんの前で」

と頭を下げた。

「や、いいよ。だってその通りだもん」

 軽く笑って受け流しつつも、わたしは少なからず動揺していた。

 他人から見たら、和佐ってそんなふうに頼りなく見えるんだ。わたしってやっぱり、どうしていつまでも結婚しないんだろうって思われていたんだ。

「でも、ラブラブですもんねえ。この間、会社お休みして箱根に行ってましたもんね。温泉付き個室! いいなあ」

 非礼と気まずさを取り繕うように、長谷川さんがテンション高めに言う。

 なんだか、その話は今ここでしないでほしい気がした。

「……へー」

 シェイクをすすりながら、真先くんが小さく言う。

 なんとなく、わたしは顔が上げられない。

「クリスマスはどうされるんですかあ?」

「あ、えっと……ランドマークタワーに」

 冷め始めたポテトをもそもそと咀嚼しながらわたしは答える。

「いいですねー! え、もしかして泊まるんですか?」

「うん」

「きゃー! いやーん、ラブラブじゃないですかあ」

 自分の誕生日なのに、和佐は自分で手配した。クリスマスが週末にかかり連休になっているので、23日から横浜ランドマークタワーの最上階の客室に泊まるのだ。

 へえ、そうなんだ。もう全部、許しちゃうんだ。

 またテレパシーが聞こえた気がした。真先くんの顔を見るのが、怖かった。

 ぴろり。ぴろり。マクドナルドのポテトの揚がる音は、記憶にある音と変わっていない。

 雪はいくらか小降りになってきて、店内が混み合い始めている。

「クリスマスって言えば、あたし彼氏と別れたばっかで暇なんですよー。マサキさん、遊んでもらえません?」

「長谷川那智がなに言ってるんすか」

 いつのまにかそんな話になっている。年の近い美男美女。もしかしたら、素敵なカップルが誕生しようとしているのかもしれない。

「あ、わたし」

 いたたまれなくなって、わたしは立ち上がった。

「先に帰るね。だいぶ雪もやんできたし、ここからなら駅まで歩けるし」

「え、なに言ってんの、ちょっと」

 真先くんは驚いて引き止めようとするけれど、長谷川さんは「え、嘘」と言いつつどこか嬉しそうだ。

「大丈夫だから、あとは若いおふたりで。ほほほ」

「ちょっと、由麻さん!」

 真先くんが追いかけてこないうちに、わたしは急いでマフラーを首に引っかけ、鞄を持って飛びだすように店を出た。

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