指輪

「ね、ね、マサキさんって、ほんとに彼女いないんですかね?」

 長谷川さんは、真先くんをいたく気に入ったようだ。雪の日の翌日、昼休憩の話題はそればかりだ。

「いないはずだよ」

 わたしの記憶にある限り真先くんに彼女の話を聞いたことは、出会ってからの6年は、ない。でも、最初に和佐に引き合わされたときはいると言っていた気がする。

 きっと彼にもいろいろあるのだろう。恋愛事情を他人にいちいち報告する人ばかりではない。

「長谷川那智って、かっこいい芸名だね」

 自分の水筒から減肥茶を注ぎながら、丹羽さんが言う。

「芸名っていうか、はい。事務所が勝手に付けたんですよね〜。でもまさか、こんなに経つのに覚えててくれる人がいるなんて。しかもイケメン。きゃー!」

 また話が逆戻りした。長谷川さんは、きっと恋愛体質なのだろう。

 ふたりは、イブにデートする約束をしたそうだ。回鍋肉ホイコーロー弁当を食べながら、長谷川さんはそのデートプランを興奮気味に話してくれた。

 自分の引き合わせた人間同士が親しくなるのは、すごく嬉しい。大切な人たちならば、なおさらだ。

 それなのに、なぜだか胸の奥がちりちりした。若さや、新しい恋。わたしが手にし得ないきらきらしたものたちへの嫉妬だろうか。

 今日は、富士山が、見えない。


 アサミとの一連のことを、わたしはいまだに自分の中で処理しきれずにいた。

 生ゴミ処理機のように、心に微生物がいて嫌な記憶をすっかり分解してくれたらいいのに。

 和佐の30歳の誕生日。よこはまコスモワールドで遊び尽くし、締めに世界最大級とやらの観覧車に乗りながら、わたしはやっぱりそんなことを思ってしまう。

 遊園地なんて久しぶりだった。イブ前日の祝日なので、カップルでいっぱいだ。この観覧車も、ずいぶん並んで乗った。並び始めた頃よりも夕闇が濃くなっている。

 誕生日プレゼントは、出発前に自宅で渡してきた。和佐が昔好きだったバンドの、リマスター版ライブBlu-rayBOX。

 みなとみらいと、その先に広がる海。束の間、わたしは日頃の些事さじを忘れて夜景に見入った。

 突然、和佐が「由麻」と呼びかけてきた。小さな袋からさらに小さな箱を取り出し、手渡してくる。

 えっ、今? 反射的に受け取りつつも、わたしは戸惑った。完全に不意を突かれた。

「え、あの」

「ほんとは夕食のときにするつもりだったんだけど、コスモクロックでっていうのもいいなと思って。ね、開けて」

 和佐はこちらに身を乗り出している。ゴンドラは空の高みに溶けそうなくらい上昇している。

 小箱には、眩い光を放つ指輪が入っていた。一粒ダイヤがころんとはまった細身のデザイン。

 黙って見つめていると、和佐はさらに身を乗り出し、わたしの冷えた左手を引き寄せた。日頃から代謝のいい和佐の指先は、冬でも温かい。指輪を台座から外し、わたしの薬指にすっとはめてしまう。

「由麻」

 その手を両手で包みながら、和佐は厳かに言った。

「俺と結婚して。お願いします」


 ずっと待ち焦がれた瞬間がやってきたのだと頭ではわかっているのに、こんなにロマンチックな状況なのに、わたしの胸には砂がざらついたような違和感があった。

 だって、彼が「俺は、由麻もアサミも好きなんだ」と言ってから、「心が割れてしまったんだ」と泣いてから、まだひと月も経っていないのだ。

 その舌の根も乾かぬうちに――。

 けれどそんな複雑な心境を語るには、時間が足りなすぎた。わたしたちの乗ったゴンドラは、既に下降を始めている。

「……ありがとう」

 かろうじて、御礼の言葉を喉の奥から取りだした。そうでも言わないと、この場の収まりがつかない。

「すごく、かわいいね」

「気に入ってくれた? よかった。会社休んで探した甲斐があったよ」

 いつの間にまた会社を休んだのだろう? しかもそれをカジュアルに報告する和佐に、形容できない不安を覚えた。

 わたしのためだとわかっているけれど、なぜだか逆に裏切られたような気分を拭うことができなかった。


 ランドマークタワーの最上階のセミスイートルームで、わたしは和佐に抱かれた。

 一生大事にするから。ずっと一緒にいよう。和佐はわたしをきつく抱きしめ、何度もキスをし、深く貫きながら愛をささやき続けた。

 これでいいんだ。きっと、このまま和佐を信じるだけで。

 そうすればあの部屋に住み続けられるし、派遣社員のままでいられる。生活の心配なんて要らない。

 あの一件の罪悪感も手伝って、彼はいっそう優しくしてくれるだろう。子どもが生まれたら、そのかわいさや世話の大変さでアサミのことなんて吹き飛んでしまうに違いない。いつか、完全に笑い話にできるかもしれない。

 わたしは脳内で合理化をはかった。そんなことをしているから、せっかくの贅沢なダブルベッドなのに今ひとつ身の入らないセックスになってしまった――もっとも、最近はずっとこんなふうにどこかおざなりだったけれど。

 一緒にシャワーを浴びようと誘う和佐を断り先に行ってもらって、わたしはあられもない姿のまま、なんとなくスマートフォンをいじった。

 LINEが2件来ていた。

 1件は、姉からのマタニティーフォト。ずいぶん突き出してきたお腹の写真に、「ちょっと早いけどメリークリスマス! たしか今日って彼氏っちのお誕生日だよね。おめでと〜」と書き添えられている。

 もう1件は真先くんで、一言だけ「由麻さん、大丈夫?」とあった。

 この子はやっぱり、テレパスなのかな。

 あの雪の日以来連絡もなく、さぞかしわたしのいいかげんぶりに失望しているのかと心配していたこともあって、わたしは目の奥がじんとなった。

 大丈夫だよ。とうとうプロポーズされちゃった。真先くんも、明日のデート楽しんでね。

 文面は浮かぶのにいつまでも指を動かせないまま、わたしは和佐のシャワーの音を聞いていた。

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